自凝島社(おのころじましゃ)のメモ

[神社]自凝島社(おのころじましゃ)のメモ

味地草=江戸期の郷土誌「淡路味知草 みちくさ」(幕末の安政4年1857年、小西友直.錦江親子著)(※この本に「約1,100年前の仁和3年(887年)7月に野島が大地震の為、海没した」と、に記載されているそうである(=淡路島北淡町の野島断層)。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/book/14-145/eqb26_153.html

味地草 第3冊 三原郡 倭文郷>下八太村>自凝島社 に
 
「山の高さ四間、周廻百五拾間程、南北へ長く東西へ短し。頂上に二柱の社あり。南方に向ふ。官所の神社集に当社僧大榎並村威光寺社人ある事著明す。神境の畝三畝六歩、此内壱畝は社殿の地にして租税を免除す。又二畝六歩は官林の地にして、諸樹を伐採る事をせぬと也。華表は西にあり。此山に往昔社なし。正徳・享保の頃大榎並村より小祠を営して自凝島明神と号す。今も当社破損の時は大榎並より造営せしむ。往年山の南に荒神祠を祭するよし今其跡存せり。安澄按に自凝島は沼島なるべし・・・・・」