橋の遺伝子(5)渡来人の足跡(日経)

[猪飼野]橋の遺伝子(5)渡来人の足跡(日経夕刊)2009/08/05配信
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news001221.html
つるのはし跡――。JR環状線桃谷駅を降りて商店街を東へ抜け、通称「疎開道路」から路地に入ると、こんな石碑がある小さな公園にたどり着く。

 「猪甘(いかい)の津に橋わたす」。日本書紀には、仁徳天皇の業績としてこんな一節が記されている。土木構造物としては、文献に残る日本最古の橋だとされる。ツルが多く飛来したことからこの橋は「つるのはし」と呼ばれ、鶴橋の地名になったという。

 4〜5世紀ごろ、古代朝鮮の百済から多くの渡来人が移り住み、高度な土木技術や文化などを伝えた。彼らが食料用に豚(イノシシ)を飼ったことから、桃谷付近は猪飼野(いかいの)と呼ばれた。

 韓国人女性の姜信英(カン・シニョン)さん(46)は、つるのはしの存在を知り、人生が変わった。

 ソウル市出身で貿易会社などに勤めた後、日本に関心が高かった姜さんは一念発起して大阪明浄大学(現・大阪観光大学)に留学した。2005年、韓国の食材などが並ぶ商店街「コリアタウン」があり、在日韓国人が多く住む生野区に興味を持ち、卒業論文のテーマにしようと調査。つるのはし跡の存在を知った。

●共生託す歌碑 

 「私が日本に来たのは運命に違いない」。資料を探していたところ、郷土史家で大阪府文化財愛護推進委員を務める足代健二郎さん(66)を紹介された。生野区には渡来人の遺跡が多くあり、在日韓国人が築いた独特の文化が存在することを教えられる。すっかり魅せられた姜さんは卒業していったん帰国したが、生野区に移住。地域の古老に聞き取り調査を続け、埋もれた史跡の発掘に取り組む。

 「危なっかしいところもあるが、姜さんのひたむきさに引き込まれた」と足代さんは振り返る。足代さんの友人で、在日韓国人が信仰する「韓寺」を調べている松田圭悟(?奎通=チョ・ギュトン)さん(68)も参加。大阪と朝鮮半島の歴史を調べ始めた。昨年、今後の活動を相談している中で、姜さんがアイデアを出す。「難波津の歌の石碑を建ててはどうか」

 「難波津に咲くやこの花冬ごもり、今は春べと咲くやこの花」。百済の学者、王仁(わに)が仁徳天皇の即位を祝って詠んだという。王仁は漢字や論語を伝えたとされ、渡来人の中で最高の知識人だ。「日韓交流の歴史を切り開いた偉大な先人」と足代さんと松田さんは賛成した。

 歌碑は仁徳天皇を祀(まつ)るために建てられた御幸森天神宮に置く。コリアタウンのそばにあり、神社とはいえ在日の人たちも参拝に訪れる。ひらがなとハングル、それに漢字の音でかなを表現する万葉仮名で歌を彫る。3人は関係者と相談しながらアイデアを具体化していった。

 「渡来人と私たちは直接関係がない」。町工場が多く存在した生野区には、1910年の日韓併合後、安い労働力として多くの韓国人が移り住んだ。いわれなき差別を日本人から受けてきた在日の人たちには、反発の声もある。しかし「日本と朝鮮半島の間には、1400年以上も前から交流の歴史がある。侵略や歴史問題で争ったのは、ほんの短い間でしかない」と理解を求めた。

 幸い、W杯サッカーや韓流ブームなどを経て、コリアタウンは開かれた社会に変わりつつあった。日本人と在日韓国人、そして韓国人。立場の違う3者が協力し合う姿に、有力者たちは地域の未来の姿を感じ、支援を始めた。

●地元挙げ後押し 

 韓国食材を手広く販売する徳山物産会長の洪呂杓(ホン・ヨピョ)さん(79)はその一人。無料休憩スペースを備えた異文化交流施設を開き、修学旅行生を受け入れて在日の文化の理解を促す活動を続けてきた。姜さんたちのアイデアを聞いて「ありがたかった」。

 在日3、4世の若者は「自らのルーツに自信を持てていない」。「古代の日本では、この猪飼野周辺が文化や技術の発信地だった。その担い手が朝鮮からの渡来人だったことを知ってもらいたい」。差別を受けた世代の洪さんは「近代の日韓の負の歴史をぬぐい去り、共生のシンボルになってほしい」と期待する。

 「この土地で育ち、商売も在日の方々にお世話になっている」。小麦粉やそば粉を扱う三宅製粉社長の三宅一嘉さん(70)は日本人有力者として支援している。話を持ちかけられた時「漠然としていて大丈夫かな」と思ったが、その後の行動力には感心したという。「生野区の支援も必要だ」と、山田昇区長に電話して協力を要請した。

 不況にもかかわらず商店街や企業の協賛金が集まり、歌碑の建立に必要な資金約200万円のうち7割を確保できた。この10月にも完成し、お披露目イベントなども開く予定だ。だが松田さんは「日本人や韓国人も気軽に参加できないと相互理解は進まない」と、今後の活動に目を向ける。

 日本人、在日韓国人、そして韓国人には、それぞれを隔てる見えない川が存在する。王仁は難波津の歌で、長い冬を耐えて咲く梅の花に、困難を乗り越えて願いを実らせる思いを託したとされる。この歌碑には、見えない川に橋を架ける力がある。関係者はみなそう信じている。
編集委員 青木慎一)


◎日本最古の橋は 

欄干に、まが玉や古墳がデザインされた猪飼野新橋(大阪市生野区
 日本最古の橋はどこにあったのか。古事記日本書紀などの古文書に残る日本最古の橋は、福岡県大牟田市にあった「御木のさ小橋(みけのさをばし)」だ。だが倒れた木を利用したにすぎず、橋とは認めない声も多い。人間が建設したものでは「つるのはし」が最も古いとみられる。人が通る街道に架けたようだ。

 最近の発掘調査で、もっと古い時代にも橋が存在した可能性が高まっている。富山県上市町などの遺跡で、集落を取り巻く堀に渡した橋の跡が見つかった。弥生時代の中期、紀元前後ごろとされる。

 ちなみに、世界で最も古い橋はメソポタミア文明のユーフラテス川にあった。紀元前2200年ごろ、日干しれんがを組み上げたアーチ橋が架けられたとされている。