牛頭山・牛頭天王についての疑問

[神仏]牛頭山・牛頭天王についての疑問
<2008-04-23 [神仏]牛頭馬頭の梵名は?>http://d.hatena.ne.jp/heisai/20080423
の続きである。
 真弓常忠『祇園信仰』(朱鷺書房・2000年)にこのように書かれている(番号は便宜上私が付した)。
1.祇園の神であるスサノオノミコトは、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神である牛頭天王ともされていました。=P28
2.牛頭天王という名は、新羅に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀を産したところから、この山の名を冠した神と同一視されました。=P28
3.それというのも、スサノオノミコトは、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されていまして、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語で、牛頭または牛首を意味し、韓国には各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の村や島がある由です。=P28
4.新羅の曽尸茂利とされていた春川の牛頭山(写真)=P38

 上記1〜4のうち、2以外はどの本にも書かれていることで、いわば定説に近い通説みたいなものであろう。
 しかし、2.の赤字の部分はどうであろうか?。
〔その前にここでハッキリさせておかねばならないが、「熱病に効果のある栴檀」すなわち牛頭栴檀というのは、主にインドの摩羅耶山(マラヤ山、一名牛頭山)に産するもので、植物としての種類はビャクダン目・ビャクダン科の【白檀(びゃくだん)】というものであって、ムクロジ目・センダン科の【栴檀】とは全く違うものだそうだ〕

 「牛頭天王」という素性の非常に分かりにくいこのカミに対する、世間一般の最大公約数的な理解は、
「熱病に効くという牛頭栴檀を産するインドの摩羅耶山の山神(もしくは牛頭栴檀の薬効の神格化?)であって、疫病を司る(または鎮める)神である。祇園精舎の守護神ともされた。その疫神たる神格と、備後国風土記逸文の伝説(=武塔天神・蘇民将来スサノオ・疫病にまつわる話)とが類似するところから、
牛頭天王=武塔天神=スサノオノミコト
三者が習合(重なり合う)した」
という辺りであろう。

 しかし、上記の記述はこれとは少し異なる。理解の為に真弓説を分解して再掲すると、

 1.スサノオノミコトは、
 (1−イ)祇園の神であるスサノオノミコトは、
 (1−ロ)インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神である牛頭天王ともされていました。

 この「祇園の神であるスサノオノミコトは」とは、「祇園社(=現・八坂神社)の祭神であるスサノオノミコトは」の意であろうと思うが、そもそもこの神社(お堂?)は、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王を祀るから「祇園社」と呼ばれたのではないのだろうか?。説明が逆のような気がする。

 2.牛頭天王という名は、
 (2−イ)新羅に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀を産したところから、
 (2−ロ)この山の名を冠した神と同一視されました
 ここで疑問に思うのは、春川の牛頭山に限らなくともよいが、朝鮮半島栴檀を産する牛頭山というのが果たして存在するのだろうか?。
 朝鮮の『東国通鑑』なる書に「楽浪の牛頭山の檀木の下に天降った檀君が建国の祖である」旨の記述があるそうだ。その「檀木」=「熱病に効果のある栴檀」と理解されたのかもしれないが、とかく植物の名前(漢字・その読み)というものはややこしいので、余程気をつけないと誤りを犯す恐れがある。
※『東国通鑑』=勅撰書。李氏朝鮮第9代成宗(ソンジョン)の1484年、徐居正らの撰。水戸黄門さんが1667年に再刊したという。そのうち原文を確認しておこう。

 ともかく、この真弓説では、インド発祥の牛頭天王新羅発祥の牛頭神ともいうべきカミとの二種類が元々あり、片や「祇園精舎の守護神」、片や「熱病に効く栴檀を産する山の名を冠した神」であって、この両者が結びついた。その理由は、

 3.それというのも、
 (3−イ)スサノオノミコトは、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されていまして、
 (3−ロ)「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語で、牛頭または牛首を意味し、韓国には各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の村や島がある由です。
  
 以上の記述は、卒然と読めば何の問題もなさそうな感じもするが、3→2→1と根もとに遡るほど疑問の多い文章である。
 2.に対する疑問は先に述べた。しかし、最も問題なのは1.の記述ではなかろうか。
 『望月仏教大辞典』「牛頭天王」の項に、(番号は便宜上私が付した)
 1.又祇園天神と称す。京都祇園社の祭神なり。
 2.或は梵名瞿摩掲唎婆耶提婆囉惹(平斎注:ゴーマ・グリーヴァャ・デーバラージャ)の訳にして、
 3.元と印度祇園精舎の守護神なりとも云ふ。
とあって、「或いは・・・・・なりとも云ふ」と解説しながら、その典拠を明記していない。
 ということは、2.の梵名も、3.の祇園精舎の守護神なり、との説も根拠が曖昧だということに他ならない。(そのあとの長文の解説には、出典とその内容が詳細に記されている。しかるに最も肝要な、すべての論議の出発点ともいうべき2.3.の典拠が示されていないのは甚だ遺憾である)
 久保田収『八坂神社の研究』(昭和49年・神道史学会)P45・46に、
「当社が祇園社といわれるに至ったのは、・・・藤原基経がその邸宅を遷して、円如が創建した観慶寺に寄進したことから(これを印度の祇園精舎になぞらえて)、祇園の名が出たのであろう。」(大意)
と述べられている。
※【観慶寺】円如が創建した薬師堂で、感神院の前身。この寺に付随した神殿が祇園社、全体として「感神院祇園社」と称した、と理解してよいのではなかろうか。観慶寺の読みは、貞観・元慶の両年号から採ったものとすれば「ガンギョウジ」か。
 上記の考えは、『社家条々記録』(鎌倉末の成立)に、
「別記云、貞観十八年、南都円如先建立堂宇、奉安置薬師千手等像、則今年夏六月十四日、天神東山之麓祇園令垂跡御座。」
とあることによって、大いに首肯できるところである。
※但し、久保田博士は上記に続けて、
牛頭天王は、祇園精舎の守護神といわれているが、そのことから考えて、祇園精舎に比せられた観慶寺あるいは感神院の神であるところから、この神(平斎注:祇園社の祭神)もまた牛頭天王であると考えられたのではなかろうか。平田篤胤は『牛頭天王暦神弁』において、「素戔嗚尊牛頭天王と号せる故に、其在所をも祇園と号す」と述べているが、むしろその逆であろう。」
とされていて、一般の通念=平田説とは逆の解釈を主張されている。

 その点は非常にややこしいが、【牛頭天王祇園精舎の守護神】説の根拠が曖昧のままでは、いずれにせよ論議が前に進まないのではなかろうか?。
 【牛頭天王祇園精舎の守護神】説は、二十二社註式(群書類従神祇部所収)に、
「牛頭天皇、初垂迹於播磨明石浦、移広峰、其後移北白河東光寺、其後人皇五十七代陽成院元慶年中移感神院、託宣曰、我天竺祇園精舎守護神云々、故号祇園社
とあるのがその初見であるとすれば、どうもわが国産の言説のように思えるのだが・・・。

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曽尸茂梨(ソシモリ)考
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