松下幸之助生誕地(続き) 

heisai2006-08-26

 松下幸之助さんの生誕地の地名は、
① 明治27年松下幸之助さんの生誕)当時=和歌山県名草郡和佐村千旦ノ木
 ※ 名草郡は、のちに海部(あま)郡と合併して海草郡となる。
② 現在=和歌山県和歌山市禰宜1216
だそうだ。                   ▲和佐村を構成する6つの大字+千旦
 ネット上の情報によれば、
(1)明治22年4月、[禰宜][井ノ口][関戸][和佐中][下和佐][布施屋]の6ヵ村が合併して【和佐村】となる。それらの旧6ヵ村は【和佐村】の各「大字」となる。
(2)昭和31年9月1日、和佐村は和歌山市に合併。旧和佐村の大字名は、同市の大字名として継承された。
とのことである。
 ここで不可解なのは、①はなぜ、【和佐村】大字[禰宜] となっていないのか?。あるいは②がどうして”和歌山市千旦ノ木”とならなかったのか?。いったい、この[禰宜]と[千旦ノ木]とはどのような関係になるのか???。
 ネット上の情報では、”[千旦ノ木]は俗称であって正式な地名ではない”と書かれている。(その記述は『和佐五千年史』に依拠するという)そうなのだろうか?。
 この問題はどうもスッキリしないので、ちょっと調べてみた。
 まず25.000分の1の地形図で見てみると、JR「千旦駅」の南側の平野に、(1)に地名の挙げられている集落が点在していて、それぞれの集落ごとに1つか2つの卍マークが見られる。[禰宜]と[下和佐]の集落にはトリイのマークもある。
 ところが、JR「千旦駅」の南側に近接した集落には地名の表示がなく、卍マークも見られない。
 私の想像では、[千旦ノ木]は大字[禰宜]の出郷(枝郷)ではなかろうか?。
 『WASA2004』>概要>地名>大字・小字というサイトに、各大字毎に小字名が示されている。http://wasa2004.web.infoseek.co.jp/itihensen.html[禰宜]は18の小字から成るが、その中に果たして[千旦]の小字名があった。(小字は一般的には耕地や山林などの土地の表示であるが、その土地上に集落が形成されると、小字名=集落名となる場合もある)
 しかし、[千旦]の集落は位置的に言うと、[禰宜]よりも[和佐中]に近い。そういうケースが無くはないけれども、一応その理由を確認する必要はあるだろう。
(なお、松下家の元菩提寺であった「極楽寺」(浄土真宗本願寺派)は[和佐中]にある。(現在、墓所は生誕地に移されている))

 『和佐五千年史』や『和佐村誌』などは手近な所にはないので、こういう場合は、
◑ 『角川日本地名大辞典(30 和歌山県、1985)
◑ 平凡社『日本歴史地名大系』(31 和歌山県の地名、1983)
が非常に頼りになる。(この二書はほとんど同じ時期に企画され発刊されたので、誰が名付けたのか”源平合戦”とは実にうまく言ったものである。それぞれに特長があって甲乙つけがたい有益な書である。(※ ”源”とは角川源義のこと))

 『角川』の[禰宜]の項目に次の記述が見られる。
「当村の北西には、当村と関戸村・井ノ口村・中村(注①)の【旧和佐村】(注②)からの出村小名(注③)栴檀木がある。はじめ新在家と称したが、大栴檀の樹林にちなんで栴檀木と改称したという。(和佐村誌)」 
平斎注①:中村は現・和佐中のこと。
     ②:禰宜・関戸・井ノ口・中村の4ヶ村は、もと【和佐村】といい、慶長の検地以後4つに分村したものである。
②の細注
◑『慶長検地高目録』(1613)は和佐・下和佐・布施屋の3ヶ村を「和佐庄」としており、禰宜以下4ヶ村の村名はない。(つまり和佐がまだ4つに分村していない)
◑『紀伊風土記』(1839)では和佐村が4ヶ村に分かれ、下和佐・布施屋を加えた計6ヵ村を「和佐庄」としている。
◑この禰宜・関戸・井ノ口・中村(和佐中)・下和佐・布施屋の6ヵ村が合併して成立したものが、明治22年4月以降の【新】和佐村である。
◑明治期の【新】和佐村、すなわち現・和歌山市「和佐地区」は、近世の「和佐庄」の範囲に該当する。

 なお、『角川』の[禰宜]の項目には、さらに次のような記述がある。
◑高三所(こうさんじょ)大明神社(=現・高積神社)は禰宜・関戸・井ノ口・中村の4ヶ村の氏神である。

 この記述によれば、下和佐・布施屋の二村は、氏神に関しても、【旧】和佐村すなわち禰宜以下の4ヶ村とは少し異なった歴史を辿ったようだ。(明治43年、和佐地区の十数社が高積神社に合祀されたというから(=平凡社、P403)、和佐地区は現在ではすべて高積神社氏地となっていると思う)
 ちなみに、同書[下和佐]の項に、
◑もとは、和佐庄の諸村と同様に禰宜の高三所大明神社を氏神としていたが、争論により当村は石清水八幡宮より勧請して氏神としたという。(紀伊風土記

平斎注③:出村=出郷、小名=小字名=小集落名。すなわち【旧】和佐村の出郷・枝郷で、はじめ「新在家」と称したが、のちにこれを「栴檀木」(=千旦ノ木)と改称した、の意。

 これを要するに、
① 千旦ノ木は、【旧】和佐村(禰宜・関戸・井ノ口・中村)時代に成立した出郷であったが、慶長の検地以後に行なわれた”村切り”(村の境界をキッチリと定めること)の際に、禰宜村の領分に組み入れられた。

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② 明治22年の制では、「和佐村大字禰宜字千旦ノ木」とせず、「和佐村字千旦ノ木」と定められた。(従来、千旦の集落は独立村ではないため禰宜村の庄屋の支配に属していたと思われる。明治22年、市町村制の施行に伴い、庄屋制度が廃止され和佐村の村役場が統括することになったので、禰宜も千旦も同格と見做されることになったのではなかろうか?)

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③ 昭和31年、和佐村が和歌山市に合併された際、なぜ「千旦ノ木」の地名を残さず「禰宜」に組み入れたのか、その理由は不明だが、事務的に処理したら単にこうなった、というだけのことか?。

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 以上が、禰宜と千旦ノ木についての一応の結論のメモである。

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(追記訂正)8/26
 実は今日、『MapFan.Net』からダウンロードした詳細な地図を見て、上記(①②③)の考えがぐらついてきた。
 まず①は基本的に少し誤りがある。というのは、幸之助さんの生誕地を含む集落(多分、一般に「千旦ノ木」と呼ばれていたのであろう。以下「千旦ノ木集落」と仮称する)の現・地名は全体が[禰宜]ではなく、[禰宜][井ノ口][関戸][和佐中]が混在しているのである。つまり、1100〜1200番台辺りの土地は[禰宜]に属するが、井ノ口333番とか、和佐関戸484番とか、和佐中467番などの土地が混在している。
 つまり、「千旦ノ木集落」全体が「和歌山市禰宜」なのではなく、1216番に関しては「和歌山市禰宜1216番」だということだ。
※(再び追記訂正。8/29)和歌山市立博物館長の寺西先生のご教示によれば、「「混在」ではなく、[井ノ口][関戸][和佐中]などがアミーバ状に張り出してきているに過ぎない。中心部は[禰宜]の枝郷だったと思う」とのこと。(なるほど、そういうことなのか)

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 そうすると、③については何の問題もない。この生誕地の場所は、いつからかは知らないが、ある時点からは既に「和歌山県名草(海草)郡和佐村大字禰宜1216番」であったはずだ。それが和歌山市への合併に伴って「和歌山市禰宜1216番」にシフトしたのであろう。
※ この地番に関して、同じく同館長のご教示によれば、「慶長の検地の際、土地の一筆毎に「筆番号」が付されたが、明治6年の地租改正に際して、新たな地番が付けられた。現行の地番はこれを引き継いでいる。」

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 そこで②については、まず、「和佐村千旦ノ木」という表示の仕方が厳密な意味で正確なものなのかどうか、これが問題だ。その典拠は幸之助さんの自叙伝(『私の行き方 考え方』)であろう。すると、自叙伝としては必ずしも地名を(所番地のレベルまで)厳密に表記する必要はないのであるから、分かり易い通称に従って、「和佐村千旦ノ木」と記述したに過ぎないのではなかろうか。

※ この分の補足記事(8/27ブログ)http://d.hatena.ne.jp/heisai/20060827
http://d.hatena.ne.jp/heisai/searchdiary?word=%2a%5b%be%be%b2%bc%b9%ac%c7%b7%bd%f5%5d