磯竹村と磯竹島(鬱陵島)
島根県大田市五十猛(いそたけ)町にある「五十猛(いそたけ)神社」は、スサノオの命の御子神である五十猛(いたける)の命を祀る古社である。(神代より鎮座、延長三年(925)社殿創建と伝える)
ウィキペディア「五十猛(いそたけ)」の項によれば、
[地名は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の子である五十猛命(イタケルノミコト/イソタケルノミコト)が当地に上陸したことに因む。旧邇摩郡。
726年(神亀3年)に「磯竹」と改称。1889年(明治22年)に再び「五十猛」と改称される。1956年(昭和31年)に大田市に編入。]
とある。
同町には、素戔嗚尊が五十猛命らをひきいて、新羅より帰航の途次ご上陸の地と伝える【神島】、五十猛命が他の神々と別れられたという【神別れ坂】、韓神新羅神社、韓崎・韓浦・韓郷山等々の神社や伝承地名が数多く遺されている。
さて、問題は五十猛の神名に因む「磯竹」が、この村だけではなく現在では韓国領とされている鬱陵島の日本側からの呼び名であった、というのは実に興味深い事だ。
吉田東伍『大日本地名辞書』「隠岐」の部に、
「磯竹島は又竹島と云ひ、韓人之を蔚陵(ウヌショム)と号す」
と記している。『隠州視聴合紀』『隠州古記集』にも「磯竹島」の名が記されているようだ。
『隠州視聴合紀』には(俗言磯竹島、按 神書所謂五十猛島歟)と記すという。
領土問題が絡むとちょっと生臭くなって困るけれども、この島(いわゆる鬱陵島)にどうして「磯竹」村と同じ「磯竹」島という名前が付けられていたのか、純粋に論理的に考究してみることは大事なことではなかろうか?
私個人は今のところ、ただ単に神話・伝説のロマンを楽しんでいるだけなのだが・・・。
すさのをの神こそいませかみよより
このかみしまに跡をとどめて
掌典・宮地巌(厳?)夫
いたけるの神のむかしの別れ坂
かへり見しつつ袖しぼりけむ
島 多豆夫
http://blog.goo.ne.jp/ashiato13/e/c726cf0d255caeeab811c63efb0be202
※ 磯竹島=竹島=鬱陵島は、いわゆる「竹島問題」の竹島(=旧名・松島)とは別である。念の為。
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今回、この記事を書くにあたって、五十猛公民館の松尾様に大変お世話になりました。ご恵贈頂いた数々の資料の中の一つ『ふるさと読本』(西部ブロック推進協議会・2005年)の巻末に
五十猛歴史年表 長尾柳作著
五十猛の歴史と民話 林 正幸著
五十猛村史 林 愛吉著
等々の参考文献名が挙げられており、やはりその土地のことは土地の人に尋ねて、郷土資料を頂くのが最も確実な方法であるということを改めて痛感しました。
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