『祖父間は邑智島』“四天王寺御手印縁起の謎を解く”

[あしたづ]古代橘島余話(二)

『祖父間は邑智島』
四天王寺御手印縁起の謎を解く”

大東道雄

一、はじめに
 大阪の人々にとって四天王寺は昔から“天王寺さん”の愛称で、親しまれてきたごく身近な存在の寺である。古代六世紀末、日本最初の官寺として聖徳太子誓願によって創建されたのであった。
 此の度、小生がこの四天王寺に伝わる国宝の御手印縁起につき、それに記されている河内国の一地名について、その所在が従来から不明とされてきた所の疑問点を、我が郷土、生野区巽の旧家より発見された資料に基き解明致したいと思い寄稿した次第である。

二、四天王寺の創建
 第二十九代欽明天皇の頃、日本に初めて佛教が伝来した、当時、大和朝廷内では本朝古来の神道を敬う物部氏と新しく導入された佛教を崇める蘇我氏とがあって互に反目し暗闘を繰返していた。
 のち用明天皇の没後(五八七年)遂に両者は武力衝突を起し河内一帯にかけて激しい戦闘が行われた。この時、厩戸(うまやど)ノ皇子と呼ばれていた聖徳太子は崇佛派の蘇我氏側につかれ、戦いに臨んで・・・“戦勝の暁には佛法の興隆と国家の鎮護を祈願する寺塔を難波の地に建立する事”を誓れた。
 そして幾度かの危難に遭われながらも戦いに勝利された以後、推古四年(五九六)難波荒陵(あらはか)の地に四天王寺を建立されたのである。この戦の結果豪族の物部氏は滅亡し、守屋の子孫従僕は寺の奴婢として施入され、広大な所領は没収されてその大半が創建された四天王寺に寄進されたのであった。

三、御手印縁起の河内所領
 四天王寺に伝わる縁起の作成は平安時代といわれているがその内容は寺創建時の記述である。それによると寺に寄進された摂津、河内の田園は一八万六八九〇代(しろ)で古代の地積五〇代を一段歩として約三七三町歩に上り寺の資材としてあてられた。
 その内、河内国の田地は二五三町歩でその大部分が渋川郡にあり実に摂河全所領の六割強を占め如何に渋川郡物部氏の本拠地であったかが解るのである。
 またその地名には鞍作や衣摺、蛇草、足代などと馴染み深い地名が並んでいて近隣の摂津東生郡には於勢(オセ)(大瀬)や模江(かたえ)(片江)などの名も見られる。

四、記載文の疑問点
 まず記載文の中で第一の疑問点は河内国田地の内で“弓削地”渋川郡二條と記され次に“鞍作地”同郡三條、四條、とあり続いて祖父間地“安宿郡(あすかべ)五條”と記されている所である。
 この一連の渋川郡の地名の間になぜ遠く離れた安宿郡五條の里が入らなければならないのかである、これは明らかに縁起書作成の際に誤って記述されたものと考えられるのである。

 なぜなら渋川郡の二條から九條に至る一連の条里、即ち南から二條、三條、四條と記され“祖父間地”の五條に続いて六條、七條、八條と北へ続いていることと若し五條の祖父間地が本当に安宿郡の土地とするなら、その次に記されている衣摺地が“同郡”と書かれているのがおかしい。
 ここは同郡ではなく渋川郡と改めて記載されなければ意味が通らない、そうでないと祖父間地以後に記されている衣摺地、蛇草地、足代地ほか皆“同郡”なので全部安宿郡の土地ということになってしまうからである。
 この点は随分以前から条里遺構の研究家、由井喜太郎(註1)氏も指摘されていて「祖父間地の(安宿郡?)は同郡(渋川郡)と解釈されている。また布施市史も「祖父間の地は不明であるが鞍作と衣摺の間に記されるこの地が安宿郡に属したというのは誤りである」と述べている。更に云えることは安宿郡は小郡であるうえ山地や沼沢地が殆んどで五條に及ぶ程の田園地帯が無いのが決定的要因である。

五、祖父間地は渋川郡邑智郷
 それではこの“祖父間”なる地は渋川郡の何処に当るのか結論から云ってそれは渋川郡の邑智郷の地である。
 邑智郷は中世までは大地庄といい石清水八幡宮の荘園であった、その範囲は広く加美郷の正覚寺村、乾村をも含む大郷(註2)でこの加美の五條、六條辺を南大地といった、そして北の七条に当る大地村の辺りを北大地(註3)といった、この南北の大地の地が古い邑智郷であり上古の邑智島であったと考えられ、橘島の北に続く大地島である。
 古代の渋川郡成立にまで遡って考えるなら縄文、弥生期以後の河内平野の生い立ちと共に始まり、河内潟に発達したデルタの一つで、それまでには幾つもの洲島が集って陸地化したものである。また河内平野を育んだ古代の各河川も度々流路を変え到る所で埋没した旧河床が見られる(註4)。国土地理院発行の土地条件図より旧河川の自然堤防に明治十八年測量図の高燥な畑地を付け加えることによって凡そ古代渋川郡の姿が浮び上がってくる。この図から中、近世の集落が全て旧河川の自然堤防上に存在している事が解るのである。[6頁図参照]

六、村上家文書
 去る昭和五十年に大阪市立巽小学校の百周年誌が発刊された、その編纂の折、御手印縁起の“祖父間地”について若干私見を述べた事があり誠に僭越ながら左にその一文を挙げさせて頂く。

『ここに特筆したいのは“祖父間地”である大地の古名は邑智郷(おおぢのさと)であるとされるが大東氏の研究によると、祖父間が一番古いのである、祖父間は「おおぢじま」と読むという発見である。祖父は父の父、即ち「オオチチ」と読む「祖父間(オオチチマ)」は「大地島」をさしていた。
 上古はこの辺り沼地、湿地帯が多く巽から正覚寺にかけての陸地を大地島と呼んでいたのである。それを裏書きするものとして大地の旧家より“祖父間”という所書が現れ邑智郷よりも以前に「祖父間」なる文字名が存在している事が明らかとなった 』

 ここに云う“大地の旧家より所書が現れた”云々は私が昭和三十七年頃、「巽史話」の編集にあたって荻田昭次(註5)氏と巽の旧家を廻っていた時、大地町の村上勝氏邸において当家に伝る由緒書の中より偶然発見したものである。
 以来その原文を世間に公表する機会もなく今日に至ったが今回、はじめて「あしたづ」の紙面を借り披瀝致したいと思う。
 次頁に紹介した文書は筆者が拝見した時は二幅あって、一つは巻物風の原文であった、寸法は従二十五糎、横五十糎程の和紙に墨書されていて紙が渋茶色に変色していた、もう一つの書状は後世に筆写されたものと思われ前文は原文と重複するので添書の部分のみ紹介する。
 つづいて原文を説明する。
「祖父の村上道桂基勝は三河国西尾の生れ也姓は源氏にして織田信長公に仕える、基勝は勘右衛門尉基重を生じ基重は豊臣秀吉公に從事す、然りと雖ども故ありて河内国渋川郡、祖父間に於て隠棲し、自ら耕作して農人となる後昆(子孫)のため之(これ)を記す」

 と云うものである、この村上家の原文は基勝の孫に当たる清兵衛尉重政が江戸初期の慶安二年(一六四九)に記した事が解る、以上この文章中で私が最も注目した箇所が次の所である。
 “退隠於河州渋川郡祖父間(・・・)”の文字である。
 この文書が書かれた慶安の頃は既に徳川時代とはいえ未だ大地の郷名として“祖父間(オオチジマ)”や“邑智(オオヂ)”また“大路(オオジ)”などいろいろな文字が里名に使われていたものと考えられる。
 次に原文の中程に出てくる“祖父松久(まつなが)桃慶清信・・云々”は慶安以後に村上家より分かれた事を物語り、松久家は享保年間に至って代々大地村の庄屋を勤められた家である。それ以後の文書は村上家先祖以来の幕紋、旗印しの紋所、戦陣に用いた吹貫(吹流し)や大馬験(うまじるし)等を詳しく書上げている。
 つづいてもう一方の書状は江戸中期の宝暦八年(一七五八)に書写されたもので、その後尾に明治四年(一八七一)に僧侶弘宣(こうぜん)が筆写解読した事を示す署名、印があった。ここにある権律師弘宣とは大地円徳寺の第十三代住職の上場顕證(うえばけんしょう)師の号である。因に現住職は第十八代、上場顕雄(けんゆう)院主である。

七、大地、村上家について
 生野区巽中四丁目にあった村上家は昔から大地では指折の旧家でその先祖は武家といわれ屋敷、門の造りや母屋の玄関上框(かまち)など武家独特の建築様式の拵えであったと、若年の頃、鞍作の表源吾(註6)氏より聞いたものである。また母屋の玄関を入った奥の鴨居上部に先祖伝来の長槍が掛っていたのを覚えている。
 以上これら全ての事から推察してこの村上家文書は非常に信憑性の高いものと思われるのである。

八、大正時代の地誌
 大正のはじめ大阪府は庶第二一七号を以て「郷土史蹟及名所旧蹟、天然記念物調査ニ関スル件」と云う通達を府下の各町村に発令したその時に調査された一冊の文書が巽の元村長(註7)宅に所蔵されていた。
 その表紙の肩に“永久保存”と書かれ、村の故事来歴から巽の各社寺の由緒など詳しく記述された貴重なものである。
 これを大正四年六月四日付で巽村村長以下、巽小学校長、巽神社社掌の三名が連署捺印して当時の中河内郡長の、奥田多賀雄宛に提出されている。
 またこの当時更に綿密に調査された、もう一冊の文章が巽中の旧家(註8)に残っていた、冊子の表題は、「中河内郡巽村大字大地誌」と書かれたもので、当時大地の旧家六家の所蔵する古文書を調査されたようで執筆者は当時の教員で巽尋常小学校訓導、三宅高太郎氏が大正十一年に記されたものである。
 この大地誌の記述の中にも“村上家文書”が古文書の一例として書き写されていたのである。
[上部参照]


○ あとがき
 栄枯盛衰、世の習いのたとえ渋川郡祖父間の里に戦国の世から、幾百年、連綿として栄えてこられた村上家も平成の時代を迎え、程なく逼塞され十年頃、他県に移られた、今は何軒かの分家筋の家にこの文書の写しが伝えられ、また扁額にして掲げられている。
 小生も永年この村上家文書のことが頭の片隅にあり今回積年の思いが果されて、ほっとしている。郷里“祖父間の地”に漸く陽がさしたような心持である。筆を置くにあたり近年各地で市史や区誌など多々刊行されておられるが、願くばもっと旧家等に眠っている埋れた、文書などを調査されるよう望むものである。

(横野万葉会)
(河内古文書の会)


 註1 「河内国条理の研究」ヒストリア十三号(一九五五)
 註2 「河内史談、第三輯」(昭和二十八年刊)正覚寺城
 註3 円徳寺、明應四年四月掛軸裏書、河州渋川郡北大路
 註4 河内平野低地部における河川流路の変遷 阪田育功氏
 註5 郷土史家、生野区巽中出身 瓜生堂遺跡の発見者
 註6 加美村誌(昭和三十二年刊)の編集委員
 註7 元、大地村庄屋、及元巽連合戸長、柳原正直氏所蔵
 註8 生野区巽中四丁目、山野寿一氏所蔵
http://kodou.ikaino.com/yokono-2.htm
http://kodou.ikaino.com/yokono.htm