摂津の国分寺

[雑記]摂津の国分寺

 古い資料を整理していたら、偶然、昭和四十一年三月発行の「摂津の国分寺」という一枚ものの由緒書がでてきた。その当時、天王寺区国分町国分寺で貰ったものらしい。この国分寺の現況はまことに寒心にたえないありさまだが、当時はちゃんとしたものだったことがこの由緒書の文面によってよく分かる。

 日記によれば、住職さんに会うためにこの寺を訪ねたのは、今から約40年前の昭和44年6月のことだった。

 「29日(日) きのう、天徳山国分寺へ行ってみたが住職がるすだった。今日、昼過ぎ再訪。またるす。(〜崇禅寺長柄国分寺などあちこちを廻ってのち再び〜)国分寺。やっと住職をつかまえた。
 この人の話によると、朝鮮には一切神社のたぐいはないという。唯、仏教以外の俗信仰は、山神・竜王大神・北斗七星君などが寺の境内の一堂に、或いは本堂内に祀ってあるにすぎない。特に七星の信仰が盛んである。氏族の氏神というものは一切ない。唯、済州島に高・梁(良)・夫の三姓の出てきた穴というのがあるそうだ」

 当時、まだ尻の青い青年(26歳)だったわたしは神社のルーツを理解したくて、韓国におけるカミ信仰について、韓国人の識者に教わる機会をさぐっていた。だが、この寺の住職が在日であることを知った上でここを訪問したのかどうかは、現在記憶に無い。(S45.12.1発行の『大阪府宗教法人名簿』には住職 繹(釋の誤りか)荕権。荕=ケイ。S54版には天野法山、H3版は**弘宗とある)
 それはともかく、その由緒書を抄録しよう。
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国分寺は、今から凡そ千二百余年前、「天平十三年(西紀七四一)」に、聖武天皇が高遠な仏教の教理に基いて、国家の平安と国民の福利を計り発願して、日本六十余州別にたてられた国分僧寺国分尼寺であり、その総元じめとして、当時の帝都奈良に、東大寺が建立されたのである。
 しかも寺毎に、七重塔、金堂、講堂、僧坊等の大規模な威容を整え、仏像を造顕し、経典を講説させる等に必要な、従使する民家五十戸と、水田十町を与え、組織的大事業はまさに空前、また絶後のものでありました。(中略)

 国分寺の建立には、なかなかやかましい立地条件があった為、その占有された遺跡の場所は当時の地形、部落の分布、交通、地方経済力などを探る手がかりとなり、更に関連のある条里遺構、国庁跡、総社、八幡等、相互に相補う研究資料となる場合が多いので、国分寺のもつ歴史的意義は極めて高く、従ってその遺跡は、私達の生きた歴史の現証として大切に保存したいものである。(中略)

 また国分寺として大淀区にもありますが、昭和四十一年三月、大阪市(文化委員会)より、当寺を摂津の国分寺として石碑を建立しました。

    昭和四十一年三月
                   大阪市天王寺区国分町一六五
                          黄檗宗 国 分 寺」

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