消えた道標と神理教会

 [磐船]消えた道標と神理教

 武藤善一郎さんの労作『大阪の街道と道標』(初版:1988、改訂版:1999)の「岩船街道」のページに、下記のような道標が記録されていた。
 
右 岩船街道 哮ヶ橋 神理教
左 月の輪を経て岩船 磐船教会休憩所

寸法 15x22x156


 そのページのMAPでは、京阪交野線「私市」駅のすぐ南側にあるように図示されている。しかし、前回(※)来た時も今回も、付近の人に聞いたりして探し回ってみたが、駅前の小公園付近にそのようなものは見当たらなかった。
 だが落ち着いて考えてみると、この図は至極簡単な概念図なので、図から受ける印象を鵜呑みにしてはいけないことに気が付いた。そこで図を分析的によく観察してみると、駅前から南東方向(月の輪瀧方面と思われる)に走る道が描かれていて、これと並行して尺治川と思われる川が描かれている。道標はこの道と川の中間に位置しているようだ。

 以前、月の輪瀧方面に神理教の教会が二つほど存在したような話を確か磐船神社宮司さんから電話で伺ったことがある。そのために、その道標―教会―磐船神社 の三者の位置関係をどうしても知りたくてこの道標を探し当てようとした次第である。
 駅から滝まで歩いてみたが、結局この道標を見付けることはできなかった。しかし、滝から駅への戻り道で旧知の吉向蕃斎師の工房前を通り掛かってそれに気付き、ここに立ち寄ったことが僥倖となった。
 第七世・吉向松蕃斎先生はご不在だったが、八世孮斎・九世松月を継承されているご子息お二人から親切なご教示を頂くことができ、実に幸いだった。おかげで、尺治川を跨いで滝道と岩船街道とをつないでいた道が今は廃道となっていることや、神理教の教会である松岡家のこと(往路に通過したが造化宮となっていたので神理教とは気付かなかった)などを教わることができた。

↑私市8丁目18付近。【道路分岐点】の白い矩形が標記「消えた道標」の折れ残った根石と推測される。
・右の道を進むと、尺治川の川岸に降りる階段がある。
・左の本道「瀧道」を行くと月の輪瀧を経てくろんど園地に至る。

↑川岸に降りて尺治川を渡ると岩船街道につながっていたはずだが、現在道はふさがっているようだ。岩船街道に出れば哮ヶ橋のたもとの神理教会(現在は跡地)に到達する。前方(下流)に架かる白い大きな橋は私市小学校に通じる歩道橋。

↑尺治川に架かる歩道橋を渡って、私市小学校前の道を西に進むと、168号線=岩船街道に出、天野川に架す「八幡橋」の対岸にスポーツ・文化センター「星の里いわふね」がある。道は天野川沿いに→府民の森ほしだ園地→磐船神社へとつながっている。

↑「瀧道改修記念碑」(昭和二年二月)。神理教会造化神宮および松岡家の一角を占めている。先々代の松岡大助氏が大正15年、大阪市内からここへ教会を移転、瀧道を改修したという。碑の手前に上記の【道路分岐点】がある。

↑碑の前を瀧方向に進むと「神理教会造化神宮」の入り口がある。

↑上記神理教会の先、道路北側(写真は上流方向から写す)にもう一つの神理教会跡。「天在諸神(あめにます もろもろのかみ)」「権太夫大神」等々のお塚が沢山建っている。昔は拝み屋さんのようなお婆さんの住む家が道路の向かい側にあったという。

↑同じく道路北側に、日蓮宗「大覚山」という新興宗教のかなり広大な寺の境内地。「南無妙法蓮華経 〇〇大神」の巨大なお塚が山中に沢山並んでいる。現住者・伊藤氏の祖母・母の代までは大勢の信者がいたが今は宗教活動を休止している。昔はこの瀧道に沿って色々な宗教が集まっていたらしい。


 吉向孮斎氏のご教示によれば、吉向窯のすぐ先の分岐点から尺治川を渡る道、また、月の輪瀧のすぐ上の分かれ道を経て岩船街道に通じる道も昔はあったが現在廃道となっている。現在は、月の輪瀧の上流、すいれん池経由で哮ヶ橋に通じる道がハイキングコースとして活用されているとのことであった。

 標記の消えた道標は、左右どちらのコースをとっても、哮ヶ橋や磐船神社に通じていたこと、神理教の教会が哮ヶ橋の傍に存在していた頃の様子を物語っている。
なお、「磐船教会休憩所」というのは現在の磐船神社社務所の前身のようなものであったらしい。

↓平斎の日記 「哮ヶ橋」
http://d.hatena.ne.jp/heisai/20140628
天野川散歩2 磐船神社
http://dokodemo-sanpo.cocolog-nifty.com/walkin/2015/02/post-a8ec.html



※前回は「東大阪文化財を学ぶ会」の磐船探訪(2015.05.17)に参加。交野市星のまち観光協会ボランティアガイド:高尾秀司のご案内が大変よかった。