もう一つの「哮(いかるが)峯」

[神仏]もう一つの「哮(いかるが)峯」
 先に河内日下の「哮峯」について述べたが、交野市私市「磐船神社」の近くにある、府民の森「ほしだ園地」の中にある”哮ヶ峯(たけるがみね)”について触れないわけにはいかないだろう。
▼イラストは「交野文化同好会」さんのサイト「第18回 交野歴史健康ウォーク」のページから【転載】させて頂きました。 なお、そこに紹介されている哮ヶ峰山頂、日・月・星の三光と「乾元亨利貞」などの文字を刻した(万治二年(1659)銘)の石碑のことは私も後日また改めて述べてみたい。

http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/kisaiti04/index.htm

 『交野市史 民俗編』P450「私市地区」の「哮ヶ峰(たけるがみね)」の項には次のように出ている。

 鮎返しの滝から渓流を少し下ると、川の左手に急に大きな切り立った岩肌をみせる。もとここは石切場であって石垣用の石を切り出していた。そのうしろのこんもりとして独立している一八六、七メートルの山が哮ヶ峰とよばれている。饒速日命が天磐樟船に乗って河内国哮ヶ峰に天降ったという神話に基づくものである。磐樟船が磐船神社のご神体になっている船形の巨石であり、天降った哮ヶ峰がこの山であるとするものである。そうして、天野川を上って大和国へ入っていったといわれている。


 一方、磐船神社の西角明彦宮司(=同社の公式サイト
http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/index-j.htmlには【磐船研究所】のコーナー
http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/resarch.htmlもある)の見解によれば同神社の背後の山が本当の「哮(いかるが)峯」であって頂上に”八剣大神”を祀り”はちけんさん”と呼ばれている磐座もある。
 「ほしだ園地」の方の”哮ヶ峰(たけるがみね)”は星田妙見宮の信仰対象の山である、とのこと。
http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/index-j.html
 そのことの真偽を星田妙見宮の本社である「星田神社」の佐々木久裕宮司に確認してみた。果たしてその回答は実になかなか奇抜なものだった。
佐々木宮司さんの話によれば、冬至の日の未明、妙見宮からこの山を拝むと、そこから新しい太陽が昇る。即ち桓武天皇延暦四年(785)十一月、「郊祀壇」を築いて北極星を祀ったのが長岡京の南郊にあたるこの妙見山だ、とのお説である。なるほどうまくできた話だと思って感心した。
 ▼そこで、各神社とこの哮ヶ峯との位置関係を図示しておく。 
  
 ところで、私自身がこの山の存在を知ったのは、中沢新一著『大阪アースダイバー』(2012年・講談社)によってである。そのP271に岸壁のそそり立った哮ヶ峯なる山の写真が掲載されていた。
 そしてその自然の岸壁(=実は採石場であったために形成された岸壁)と、それとは対照的な近代の造形物であるロッククライミング・ウォールが並んで写されている。中沢さんはこんな妙な”哮ヶ峰”をどこで探し当ててきたのだろう?と、その情報収集力だけを当時いたく感心したものである。

(注)中沢新一著『大阪アースダイバー』の”アースダイバー”とは、世界が一面の水に覆われていたという原初の時代、カイツブリが水底から泥を掬ってきて大地を作ったというアメリカ先住民の神話に由来しているらしい。「アースダイバー的」な考え方とは、そのぐにゅぐにゅした泥から世界が作られたのだとすると、人間の心も形の定まらない、同じようなつくりをしているはずである―というようなことであるらしいが、私にはよく理解できないのでパス。

▼『大阪アースダイバー』P054「四天王寺物語」(軍事と呪術の物部氏)の章、P269「北河内」(宇宙船イワフネ号)の章から抜粋


・古代の河内は、物部氏の世界だった。

・もともと北九州の弥生系豪族であった物部氏は、天皇一族よりもずっと古い時期に畿内へ入った人々である。

・彼らは『古事記』や『日本書紀』よりも古い由緒をもつ、一族の歴史を語る神話集を持っていた。

・「モノ」と呼ばれる霊力を扱う精神技術についても、物部氏は独特の伝統を保持しており、天皇一族もこの点では物部氏に一目置かざるを得なかった。

・一族の政治的中心は、河内の八尾に置かれ、宗教上の聖地は、生駒山系北端の渓谷地にある美しい景勝地に設けられた。

・「哮ヶ峰」と呼ばれる岩山に、巨大な「磐船」を着船させた物部氏の先祖は、そこから広がって寝屋川沿いの交野の地に勢力を伸ばしていったと言われる。
(平斎注:この点は異議あり。寝屋川は天野川の誤りではないかと思われます)

のちになると物部氏の有力グループが狭い交野の土地を出て、生駒山地沿いに南下して、いまの八尾のあたりに新しい開発の拠点を設けるようになった。そこならば広大な水田開発が容易だったからである。そのグループの勢力は物部守屋の時代に絶頂期を迎えた。
(平斎注:この辺まで大賛成。「のちに物部宗家が政治的中心をおいた八尾」という推測は愚見とマッチする。

 愚見によれば(単なる空想、たわごとにすぎないが)ニギハヤヒという神を奉じる物部一族は「青雲の白肩の津」=枚方市の伊加賀崎の辺りから天野川を溯り磐船渓谷を経て南田原星ヶ森の泉〜矢田〜斑鳩一帯を勢力圏としたのであろうと想像される。すなわち、物部氏が八尾に政治的中心を移したのは神武即位よりのちのことであろう)

 ちなみに、伊加賀崎の意賀美神社旧地は物部氏の祖・饒速日命六世孫「伊香色雄命」の邸宅のあった場所である。伊加賀崎にはかつて『神武帝御東征記念碑』という標柱が建てられていた。
イカガシコヲ=開化天皇の皇后にして崇神天皇の母となったイカガシコメの兄。崇神天皇の時、意富多多泥古を神主として大物主神を祀るにあたり、天之八十毘羅訶(平瓮)を作り、天神地祇の社地を定め、また氏神として石上大神を奉斎したとされる)
▼「哮ヶ峰」(『交野町史』民俗編口絵写真より転載)


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http://kamnavi.jp/ym/yamakei.htm