バタヤンの人生航路 

heisai2006-08-10


 大阪ミナミのサパークラブ”青い城”事件の発端となった、歌手の田端義夫も小学生時代 猪飼野付近で過ごした。(正確にいうと、鶴橋・猪飼野界隈で何ヶ所も住居が転々としたらしい.彼の生年月日は、1919(大正8).1.1)
参考:ウィキペディア[田端義夫]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E7%AB%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AB
 「兄の住まいは鶴橋にあった。二階建ての長屋で戦災にもあわず、戦後ずっと同じたたずまいを残している。その後いく度か訪ねた懐かしの地だが、どん底の少年時代はここからスタートした。
 大正15年、大阪市鶴橋第二尋常高等小学校に入学した。暮には大正から昭和へと、元号が変わろうとしている年の春のことだった。
 小学校に三年半しか通学できなかったわたしとしては、良くも悪くも貴重な学校生活を送った懐かしい日々のことだ。
 松阪から移り住んできて間もなく、友達らしい友達もいなかっただけに、小学校に入学して、とてもうれしかった。・・・・・」(『オース!オース!オース!―バタヤンの人生航路―』田端義夫著・日本放送出版協会・1991・P27)
 「兄貴は猪飼野に向かって、鶴橋駅から二筋か三筋手前の、右へ入った長屋に住んでいたんです。ぼくを鶴橋第二尋常高等小学校(現在、北鶴橋小学校)へ入学させてくれたんですけど、だんだん、だんだん行き詰まって、結局、ぼくたちを置いて蒸発してしまうんです。・・・・・」(『青春紀行/紅の巻』「別れ船・かえり船」読売新聞大阪社会部 編・1983・P153)
参考:バタヤンが母校で初のライブhttp://www.walkerplus.com/movie/report/report4323.html

(平斎注) 「鶴橋第二尋常高等小学校
 私は最初、これは”尋常小学校”のまちがいではないか?と思った。
 田端義夫が入学したのは高等科ではなく、尋常科の方であるのは明らかだからである。
 しかし、何事も軽はずみな思い込みによる断定は禁物だ。
 なんと、この「北鶴橋小学校」の沿革は次のようになっている。
T7.6.1[鶴橋第二尋常小学校]→ T14.4.1[鶴橋第二尋常高等小学校]→ S3.1.8[鶴橋第二尋常小学校]→ S16.4.1[北鶴橋国民学校]→ S22.4.1[北鶴橋小学校]
 つまり、田端義夫の在籍期間を含む一時期だけ、「高等」が付いていたのである。

 私は「尋常高等小学校」という名称の意味を取り違えていた。
 尋常科(6年制)と高等科(2年制)を併置している小学校が「尋常高等小学校」であって、高等科だけで尋常科のない小学校は、ただの「高等小学校」というのである。(当時 併設校があったことは、私ももちろん知ってはいたが、高等科単独でも「尋常高等小学校」というのだと、なぜかバカな思い込みをしていた)

(以上は猪飼野郷土誌』猪飼野保存会・1997)P31「猪飼野の歴史 九 明治・大正・昭和の学校」(荻田昭次)による)