「猪飼野町」の町名
http://ikaino.com/(<猪飼野ドットコム>からの転載)
鶴橋・猪飼野〜旧村の歴史とコリアン文化が同居するまち〜
国際色豊かな"猪飼野"界わいは、大阪のもう1つの顔である。
"猪飼野"の地名は現在の地図にはないが、JR鶴橋駅・桃谷駅の東方、平野運河の両側一帯あたりがおおよその位置である。在日韓国・朝鮮人の街として有名だが、このまちに定着した事情をはじめ、古い歴史や地名の由来などは、一般にはあまり知られていない。
"猪飼野"は、異文化が同居する味わい深いまちである。数々のエピソードがあり研究領域も幅広い。今回、旧村の歴史や史跡、猪飼野と在日韓国・朝鮮人との縁などを調べ、現在ここで生きる人々の活動や思いを取材するうち、大阪の中でも珍しいほど、歴史的文化的な歩みが、まちや人々に深く刻まれているのを痛感した。この地域の営みそのものが、個性あふれる資源であることをお伝えできればと思う。(栗本智代)
「猪飼野」の地名変遷のあらまし
一 仁徳天皇の時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・猪甘津
二 室町時代・・・・・・・・・・・・・・・・四天王寺領・猪養野庄
三 江戸時代・・・・・・・・・・・・・・・摂津国東成郡猪飼野村
四 明治初期・・・・・・・・・・・・・・・大阪府東成郡猪飼野村
五 明治中期以降・・・・大阪府東成郡鶴橋村大字猪飼野
六 大正初期以降・・・・大阪府東成郡鶴橋町大字猪飼野
七 大正末期〜昭和七年・・・・・・大阪市東成区猪飼野町
大正14年(1925)4月1日、大阪府東成郡鶴橋町は大阪市に編入されて東成区の一部となり、
猪飼野を含む5つの大字の総称たる鶴橋町の名称は消え、猪飼野町となりました。
八 昭和七年以降・・・・・大阪市東成区猪飼野大通一〜三(昭和一九年、大成通と改称)
・猪飼野東(一〜十)・猪飼野中(一〜八)・猪飼野西(一〜四丁目)
九 昭和十八年以降・・・・・(大阪市東成区猪飼野大通)と(大阪市生野区猪飼野東・中・西)とに分かれました。
十 昭和四十五年(一九七〇)九月一日・・・・・(東成区の住居表示施行)
・ 昭和四十八年(一九七三)二月一日・・・・・(生野区の住居表示施行)
これによって旧猪飼野村の区域は、玉津・鶴橋・桃谷・中川西・田島・・・などの多くの地区に分割され、猪飼野の地名が消えました。
(『御幸森天神宮壱千六百年記念誌』より転載)
「猪飼野町」の町名
上記の通り、大正十四年(一九二五)〜昭和七年(一九三二)の間、旧・猪飼野村の名を継承する「猪飼野町」の町名が存在した。猪飼野町はのちに猪飼野大通(のち大成通。一〜三丁目)【=現・東成区域】・猪飼野東(一〜十)・猪飼野中(一〜八)・猪飼野西(一〜四丁目)【以上=現・生野区域】に区分された。『日本書紀』仁徳天皇十四年条に「猪甘(いかい)の津(つ)」、『四天王寺金堂舎利講記録』(応永三十一年(一四二四))に「猪養野(いかいの)庄」の名が見える。猪甘・猪養・猪飼はすべて同訓同義で、朝廷に献上するための猪(当時のブタ)の飼育を任務とした"猪甘部(いかいべ)"の居住地であったと考えられている。飛鳥時代以後、殺生を禁ずる仏教の教えが普及するに伴って猪甘部も消滅し、地名だけが残ったようである。大正八年(一九一九)に始まる「鶴橋耕地整理」に伴う平野川付け替え工事以降、直線化した新平野川が猪飼野地区の中央部(すなわち旧集落より五〇〇㍍東側)を貫流することとなった。当地はこのころから宅地化が急速に進み、大正十一年(一九二二)十月に済州島〜大阪直行便が開通したことと相俟って朝鮮人住民が増加していった。現在、日本最大の在日コリアンの集住地として名高く、かつては朝鮮からの郵便が"ニッポン・イカイノ"の宛書で届いたとも言われている。
猪飼野の成り立ち
猪飼野の地名の由来は、「日本書紀」仁徳十四年条に記された「猪甘津(いかいつ)の橋」に求められる。「冬十一月為橋於猪甘津即号其処曰小橋也」(猪甘の津に橋わたす、すなわち其のところをなづけて小橋という)という記事があり、「猪甘」は、猪飼・猪養と同意で、朝廷に献上する猪を飼育していた猪飼部(いかいべ)の住居地であったと考えられている。この「猪」は、野生のイノシシではなく、渡来人が大陸から持ち込んだブタであるという説が有力である(注)。"猪甘津"は、旧平野川の河口付近にあった港で、そこに交通路としての橋が架けられたということである。これが文献上日本最古の橋である「猪甘津の橋」で、後の「鶴の橋」だと伝えられている。猪飼部は、飛鳥時代以降、殺生を禁ずる仏教の教えが普及するのに伴って消滅し、地名だけ残ったらしい。
このあたりは、百済からの渡来人が多数居住したと考えられている。百済国は663年、唐・新羅連合軍に攻め滅ぼされ、百済から大勢の人が日本へ渡来し、百済王一族が難波に居住したことが、「日本書紀」天智3年条に "百済王善(禅)光王以て難波に居べらしむ"と記されている。その最初の居住地が今の天王寺の東部であり、この一帯に、百済郡ができたと考えられている。現在も地名が残っている。例えば、生野区の林寺にある「百済」バス停、JR関西の駅名(現在は、東部市場前駅)の他、旧平野川はもと百済川といい、大正14年東成郡の大阪市編入までは、旧生野村の南に北百済村、南百済村があり、市電にも百済停留所があった。四天王寺のすぐ東に「百済」の小字名もあったという。
この地域は、室町期、猪養野庄(四天王寺領としての記録「天王寺金堂舎利講」記)と呼ばれた時期があるが、近世以降、猪飼野村になる。村は、ほとんどが農家で、田は一毛作で主には稲作、畑は主に綿作であり、余業として木綿稼ぎ、わら仕事といった内容であった(「猪飼野村明細帳」)。これは明治期まで変らず、生駒山裾まで、一望田畑が続いていた。
明治22(1889)年、"市町村制"の施行により大阪市が発足し、この地区は、猪飼野、岡、木野・東小橋、小橋の5か村が合併して「東成郡鶴橋村」となり、各村は大字となった。「鶴橋」は旧平野川にかかっている「鶴ノ橋」からとった名である。明治28年5月に天王寺―玉造間に大阪鉄道(現在のJR大阪環状線の当初の姿)、大正3年4月に上六―奈良間に大阪電気軌道(現在の近鉄線)が開通し、大阪の急激な市街地化と人口増の波が、郊外である猪飼野まで押し寄せることになる。耕地整理が大正8年頃から実施され、洪水で人々を悩ませた平野川の改修工事も、当初は農業生産向上を目的に開始されたが、整備された農地は住宅地となり、人口が激増した。
鶴橋村は鶴橋町と変更され、大正14年東成区の一部として「猪飼野町」となる。昭和18年生野区が創設され、猪飼野は東成・生野両区にまたがることになり、その後、鉄道、新平野川、各道路を境界とする住所表示変更が必要になった。そして昭和48年、猪飼野の地名が消え、鶴橋、玉津、中川西、中川、桃谷、勝山、田島などの町名に区切られることになった。
注)弥生時代の遺跡から出土されたイノシシの多くは、その骨格形質調査により、実は家畜化されたブタであった、という研究報告が出されている。この弥生ブタの由来は大陸の確かな資料がないため不明だが、今のところ、弥生人が約500年の短期間である弥生時代に野生のものを家畜化したと考えるより、渡来人がブタを大陸から持ち込んだと考える方が自然であろうという結論である。(「弥生時代のブタについて 」 西本豊弘著、「イノシシとブタを考える」安部みき子著 より)
なお、本来、中国ではブタを「猪」と表記する(イノシシは「野猪」と書く)。
(大阪再発見「鶴橋・猪飼野」 栗本智代著より転載)
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