「靖国イデオロギー」の詭弁 

【承前】
 靖国神社の戦犯(昭和殉難者分祀問題について、神社側の「分祀はできない」という主張は、その理由を整理してみると、
A, 祭神の数は約二百五十万柱であるが、神座は一つ(一座)である。
B, これを「靖国大神」という一神として信仰している。
C, ゆえに、特定の祭神(昭和殉難者)だけを切り分けて分祀分遷)することはできない。
ということだそうである。
※「分祀」という語を使うと、”ろうそく理論”を持ち出して趣旨をすり替えられるので、「分遷」の語を使用する。拙稿参照↓http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/2006/04/miotukusi060425.html


 この論理を、前日とすこし重複するが、もう一度検討してみよう。
住吉大社春日大社でもよいが―)の場合、
A, 祭神は四柱であり、本殿・神座ともに四つ(四座)である。
B, この四柱の神を古来「住吉大神」と総称して信仰している。
C, ゆえに、特定の祭神だけを切り分けて分祀(分遷)することはできない。

 住吉社・春日社などの場合、本殿や神座・ご神体は四神が各々別々であるから、分け遷すことは物理的には可能なはずだが、信仰上、実際には不可能であることは誰が考えても分かることである。
 生国魂社・座摩社のごとく一棟の本殿に複数の祭神が祀られている例はむろん枚挙にいとまがない。しかし、本殿・神座・ご神体が単数か複数かにかかわらず、いずれの場合でも、これらの古社に祀られている祭神(複数)が各神社において不離一体のものであることは、歴史上・信仰上・観念上などいかなる観点から見ても、これを否定することができないものである。


 しかし、同じ複数でも、靖国神社の祭神の場合、”不離一体である”と万人が素直に認め得るであろうか。
 戦没者の方々の英霊と、戦争を指導・推進した政治家(死刑にもなっていない松岡洋右・元外相も含まれる)の霊魂が”同じ座布団に座っている(松平・元宮司の弁)”かどうか知らないが、一体不可分の「靖国大神」とは笑止である。
 「靖国イデオロギー」の信奉者の方々は、このことに対して、心底 少しの不自然さも感じないのだろうか?。
 歴史上・信仰上、祭神の不離一体感に自信が持てないからこそ、神社側は”祭神の座布団が一つ(神座が一つ)”などという、物理的な理由を唯一の根拠としてこれに固執せざるを得ないのではないか。

 何度も言うが、分遷が可能かどうかは、そのような物理的な条件によるのではない。歴史上・信仰上の問題である。
 戦没者と戦争指導者を一緒に祀って、どうしてそれを信仰上 一体の「靖国大神」と仰ぐことができるのか。

 ”死者の霊魂は平等だ”などというのは詭弁である。(小泉サンも国会の答弁でそんなことをぬけぬけと言っていた)
 それなら、大楠公を顕彰する湊川神社に、坊門宰相清忠(楠公の献策を退け、楠公戦死の原因を作ったバカ公卿)を一緒に祀ることを提唱してみたらどうか。(湊川神社は拒否するに決まっているが、これは仮定の話である) 
 本心から死者は平等だと信じているなら、ぜひ一度提唱してみてほしい。そして、一旦合祀してから、これを分け遷すことが本当にできないかどうか、よく考えてみれば分かるだろう。


 こんな分かりきったことを書くのはもうイヤになった。
 世の中に詭弁を弄するエセ宗教者ほど始末の悪いものはない、ということである。