猫間川は河川か排水路か

[郷土]猫間川は河川か排水路か

 先日、大阪市の下水道の担当職員の方から色々お話を伺った時に、「猫間川はもともと河川法による【河川】ではなく、ただの【排水路】という位置付けだったので、現在暗渠になっている下水道【天王寺森之宮幹線】(=以前は確か”猫間川幹線”と言ったと記憶するのだが)は、河川から下水道に転換したという訳ではない」
という、卒倒するような話を聞いた。

 私は実は以前から、猫間川は河川から下水道に転換したと思っていたのだが、そういう転換(つまり河川課から下水道課への管轄変更)ということが事実としてあったのかどうかについて、実は漠然とした疑問、何となく釈然としない気持ちを抱いていたのである。
 それがこういう風に言われてみると、法律的観点からはスッキリするのだが、一方で「猫間川は川ではない」とすると、川と排水路とはどこがどう違うのか、というまたまた新たな疑問が頭をもたげてきたのである。

 この点、「猫間川源流探検記」の安井邦彦氏や、「猫間川をさがせ」の椋康雄氏などの猫間川研究家の方たちの見解はどんなものであろうか。
 「猫間川源流探検記」に次のような記述があった。
玉造→森之宮間の猫間川は、これまで昭和三十二年に暗渠化されたというのが定説になっていたが、完全に暗渠になったのは昭和三十四年三月であったことか確認できた。旧砲兵工廠跡地内を流れていた猫間川は、少なくともアパッチ族が活躍していた昭和三十五年頃までは確かに存在していた。猫間川最下流部の埋め立て申請が昭和三十四年二月に出されたということは、それ以前またはそれと同時に廃川の手続きがとられたものだと考えられる。つまり廃川となって河川法の適用を受けなくなってからも、しばらくの間猫間川は地上を流れていたことになる。
http://www.occn.zaq.ne.jp/ringo-do/tanken_news.htm

 つまり、下水道の担当者は「最初から河川ではなかった」と言い、安井氏は「昭和三十何年かに廃川の手続きがとられ、その結果河川法の適用を受けなくなった」のだろう、という見解のようである。
 これは一体どちらが正しいのであろうか?。
 そこで私が「では、これは河川課の過去の河川台帳か何かに猫間川の記載があったかどうかですね」と下水道担当者に言うと、その人の答は「元々河川でなかったとすれば、猫間川の記録が管轄外である河川課にあるはずが無いと思う」とのことであった。

↑図の中央、右から左方向へ屈折しながら北流するのが「天王寺森之宮幹線(猫間川幹線)」。北端に猫間川抽水所(P)があり、その下水は東側(図では上の方)の中浜下水処理場(【処】)に送られる。

↑この図で見ると、この幹線の先端は阿倍野区三明町二で西折して常盤幼稚園南側の庚申街道との交点に至る、ということになるようだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ≪承前≫ しかしこのままでは埒があかないので、数日前、河川担当(大阪市建設局【下水道河川部】のなかの河川担当。”河川課”というのはないみたいだ)に電話をして調査を依頼しておいたのだが、その回答の電話が今日入った。頭の良さそうな若い女性の声で、実に誠実に疑問に答えて下さった。ご親切に感謝したい。
 それを要約すると、次のようになる。

・ S32.4.1 大阪市普通河川管理条例制定
・ S40.7.1 その普通河川の指定・告示(駒川・今川・西ノ川など26の河川を指定。市の公報号外第34号に記載。

※ 駒川・今川はS45.5.1に一級河川に格上げ。その管理はH15に府より市に権限委譲された。西ノ川はのちに(S44)埋め立て。
※ この普通河川のリストに猫間川は含まれていない。思うに、その理由は猫間川はS33〜34頃、市の下水道事業によって埋立工事が完了しており、S40の時点ではすでに川または水路として地上に存在しないためではなかろうか。
※ 現在、市の普通河川は大野川・長瀬川・細江川・三軒家川の4河川のみとなっている。

 電話でのやりとりであるため、細かい点は私の方の聞き違えなどもあるかも知れないが、大体こんなものである。
 それにしても、長瀬川が河川法の適用を受けない”普通河川”(=法定外公共物の一つ)というのは全く驚きだ。元々は大和川の本流であったというのに・・・。これも滄桑の変の一齣か。