姫島龍神社

[神社]姫島龍神

3月19日(日)東大阪文化財を学ぶ会
歴史探訪 知られざる大正区の歴史をさぐる 〜渡船に乗ってみよう〜 に参加。

行 程 (全行程約7㎞)
大正橋→両川口津波の碑→木津川口遠見番所跡(公園内)→近代紡績工業発祥の地→三軒家→中村勘助の碑・上八坂神社、境内末社・姫島龍神社→八阪神社→落合上渡船場→落合下渡船場(木津川)→平尾公園(昼食)→小林産土神社→昭和山→御船蔵跡→JR大正駅

≪上八坂神社≫大阪市大正区三軒家東2-7-18祭神  素盞嗚尊、天之日穗命、應神天皇
摂社 姫島竜神社「天之一根命(弁財天の一神)」、天満宮菅原道真

上八坂神社は、正保4年(1647)9月、三軒家の開発者「中村勘助」が京都祇園の八坂神社の分霊を勧請し、素戔嗚尊を祭ったのが、起源であるという。社殿は三軒家東2丁目のほぼ中央にあたる丸島に建てられたが、宝永4年(1707)の大津波で水害を被ったため、正徳年間(1711〜16)に富が岡と呼ばれる景勝の丘上に移った。これが現在の社地である。ここには姫島の地主神が祭られていた。これが姫島竜神である。
≪境内末社・姫島龍神社≫
下見の際、神社の方から、「『古事記』国生みの段の後半に、「女島を生みき。亦の名を天一根と謂う。」とある。これは国東半島の先にある姫島とされている。 また、『日本書紀』垂仁紀に、都怒我阿羅斯等が白い石から生まれた娘が、難波に至って比売語曽社の神となり、また豊国国前郡の比売語曽社の神となったとある。『古事記』にも、難波の比売碁曽の社に坐す阿加流比売神と謂うとある。天日矛が追いかけて来たが、渡しの神は塞へて入れなかったとある。 難波の比売語曽社とは往古、姫島と呼ばれており姫島竜神社の当社のことであると、仰有っていた。                      
↑【当日のレジュメより転載】
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※当日、最初は臨時に来ている禰宜さんが話されたが、そこへ運よく安達宮司さんが娘さんの車に乗せられて帰って来られた。
 宮司さん曰く、阿加流比売は住吉大神の娘。新羅から追いかけて来た天日矛を、白い着物を着た住吉の神さんが明石海峡で取っ掴まえて、ボーンと放うり投げた。すると天日矛は出石まで飛んでいったが、女運のいい人で、出石でまた在地の女性を娶って子孫が繁栄した。(→たじまもり=多遅麻毛理、神功皇后。おもしろく話されたが記述を省略)。住吉の神さんに因んで、牛窓←牛転(うしまろび)の話も身振り手振りで話して頂いた(ここでも住吉の神さんはなぜか白い着物を着ている)。神話をこんなにおもしろく語られる神主さんは初めてである。仮令、筋書きが少々不正確でも、誇張があってもそんなことは一向に構わない―神話を語る時はこうでなければいけない、ということを体験させられ、教訓が骨髄に徹した。こんな素晴らしい神主さんは生まれて初めてである。
 気に入ったので、難波の姫島は大正区の姫島龍神社の場所と決めておこう。
神奈備さんが見つけてくれたように、当社の北側に【姫島山】専称寺があるのも結構面白い。







↓下図は『神奈備にようこそ』より転載
http://kamnavi.jp/en/settu/yasaka02.htm
赤印=浪速の姫島・比売語曽神・阿加流比売  



中村勘助は慶長15年(1610)木津に移住、豊臣家の姫島北岸軍船係船所建設工事に従事、姫島を開発したといわれ、木津川浚渫によって船運はよくなった。

専称寺は、寛永5年(1628)3月、僧敬順が東本願寺宣如上人から姫島山の山号を賜り、自宅を改造して一宇として始まった。
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安達利夫宮司ミクシィのプロフィール
1947年生まれ、団塊の世代のおちこぼれ。
1969年京都コンピュータ学園、第1号入学生。
30数年間勤めたコンピュータ会社を退職し、神職に転進(大阪国学院通信学部にて、資格取得)。
2005年6月大杉神社宮司に就任。
彦根市武奈にある、初代イザナギの御霊処)
趣味:お酒

http://www.kitora369.org/
↑私がおまもりする神社は、社殿も鳥居もない山頂の神社です。大きな縄文杉御神体で、山頂のイワクライザナギ命の御霊処(お墓)といわれています。
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