将軍地蔵尊

[猪飼野]将軍地蔵尊


 天王寺区上本町八丁目の国際交流センターの南南東400m、五条小学校の西向い側にある。
 先日、第3回猪飼野探訪会で、北区天満橋一丁目(源八橋西詰)にある「日羅公之碑」前において、韓国式の祭祀(チェサ)を行い、その後、日羅に関する小文を郷土雑誌『あしたづ』に寄稿することになった関係上、日羅ゆかりのこの地蔵さんの写真を撮りに行ったという次第である。
 地蔵尊の横に由緒を刻んだ石碑があるが、石が黒いので少し読みづらい。先日おとづれた時、丁度由緒書のコピーが持ち帰れるようにしてくれてあったので、頂いて帰った。
 以下、要点をメモしておく。

・ 天保十四年(1843)、大阪城東南部・杉山(玉造口付近)に造立。(石像・水鉢・手水鉢・標柱は当時のものとか)
・ 明治の初め、大阪師団創設に際し、天王寺小宮に移転。これは現在地より南45メートルの地点。
・ 太平洋戦争末期の昭和20年 3月、空襲にて被災。
・ 昭和28年 5月、特別都市計画(=戦災復興土地区画整理)により、現在地に移転。

 普通の【勝軍】地蔵は、兜を被り鎧の上に衣を着て剣を持った乗馬姿で、武人に信仰された。当所の【将軍】地蔵は、武将ではなく町人たちの発願で建立されたので、岩に腰をかけた半跏像で、手には剣ではなく錫杖(と宝珠)を持つ穏やかなお顔・・・と説明(=将軍地蔵保存会)されている。

 また、由緒書きの石碑の碑文を写したと思われるもう1枚のコピー(松井孝 撰書・出口常順 題)の要点は、
・ 敏達天皇十二年(583)に召還された日羅の献策は、推古天皇の冠位十二階制、聖徳太子の十七条憲法孝徳天皇の大化の新政として生かされた。
・ 日羅は、敏達天皇の詔によって初め天満同心町に葬られ、後年肥後熊本に移葬されたが、その墓所を発祥地とした地蔵堂の菩薩像は日羅公または太子の作とされる。(平斎注:その地蔵菩薩像は勝軍地蔵ではない)
・ その後 公は京都愛宕神社を始め各地に祀られたが、当所の尊像は大阪で最も由緒深いものである。即ち、往昔 坂上田村麿公が日夜信仰した将軍地蔵は、日羅公の権化とされている。(同注:仮に田村麿公が勝軍地蔵を信仰したとしても、この石像は天保14年の作であるからこれではない。この撰文はちょっと不正確で頂けない)