旅客用【百済駅】の木柵

[猪飼野]旅客用【百済駅】の木柵

 発見‼などというと、「そんなこと、誰でも知ってる!」と言われそうで恥ずかしいが、ホント僕とすれば大発見なので、世間様に向かって公表しておく。
 昨日、「大阪歴史散歩(生野区)」<百済野(桑津街道・平野街道)を歩こう>の原稿をやっと書き上げてそれを依頼先にメールで送ったのだが、書いた記事に間違いがあっては、とちょっと心配な点が一ヶ所あったので、それを確かめるべく林寺方面まで自転車を走らせた。その時、関西本線の「百済駅」の件を思い出して、ついでにその「駅の跡」を確かめに行くことにした。
 今在家(現・東住吉区今川)の奥村さんが幕末に私費で架けたという由緒のある「奥村橋」近辺は、過去には何度か探訪しているし、車では25号線のこの付近は何度と無く通っているのに、旧【百済駅】のことは今まで意識にのぼったことが無かった為に、奥村橋のすぐ横だというのに、この木柵には全く気が付かなかった。
 貨物駅である「現・百済駅」ではなく、旅客駅としての旧【百済駅】のことが意識にのぼったのは、今回<百済野を歩こう>を書くことになったせいであるが、直接的には塩川慶子著『百済郡探検』の中の「百済駅」の記事に触発された、というのが実際の経緯である。
 この近所の古い住人なら誰でも知っているであろう、この旅客用【百済駅】のことは、案外、地域史の盲点ではなかろうか。
 ただし、ウィキペディアには両駅の沿革がちゃんと記述されている。その記事↓

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 百済駅(くだらえき)

1.1909年4月1日から1945年頃まで関西本線の平野〜天王寺間にあった旅客駅。1989年11月11日、ほぼ同位置に東部市場前駅が開業した。

2.1963年10月1日関西本線の貨物支線上に開業した貨物駅。

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(※平斎注:『東住吉区史』P141・P295には1.の開設を「明治43(1910)年12月」としているが、どちらが正しいのだろう?)

 それはともかく、昨日は夕方で暗かったので、今朝、友人の者氏を誘って改めて写真を撮りに行った。(↑モデルは男前の者氏)
 ついでにこんなフシギな看板も見付けたぞ(この時計店、屋号がどうして二つもあるンだ?)↓