高津七家のこと

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2006.3.31.高津正一郎氏より受贈。高津家墓地(圓成寺?)参詣。 自性院境内の墓地で高津木守の曾孫に当る人と偶然出会う。
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 上記のついでに、中央区・高津宮の宮座のお家のことを書き留めておく。 『高津家の歴史』(昭和50・1975年、高津彦次郎 著)という小冊子がある。 「高津家中興の祖・朝臣宗達三百三拾年記念」の副題が付いている。  この冊子の記述に従えば、高津家の初代は清和天皇貞観八(866)年、勅を奉じて高津社を創建した伊予権ノ守橘良基。中興の彦右衛門宗達は、元亀元年(1570)?〜正保三年(1646)。この人から九代くらい降った幕末〜明治初期には高津氏には七家があった。(宗達の分かれかどうかは不詳) (*郷土雑誌『上方』(高津墓の項)に、「碑面には ○慶長十有五年三月 橘宗達」と見え、市内に於ける此種の碑では正に最古に属すべきものであろう」という記述がある)  当社の祭神は周知の通り仁徳天皇であり、朝鮮から来た王仁博士が仁徳天皇に奉ったという次のような有名な和歌がある。 ”なにわ津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと さくや この花”  そこでその時の七家の当主が、それぞれの名を次のように改名したという。 ・ 高津佐久弥 ←治郎右衛門・・・・・・年寄 ・ 高津 面 ←久右衛門(利久)・・・庄屋 ・ 高津 門 ←四郎兵衛・・・・・・・町年寄 ・ 高津 蔭 ←猪衛門 ・ 高津木 守 ←源佻 ・ 高津 男 ←五右衛門 ・ 高津春 部 ←又右衛門  この時の当主の人たちが如何なる動機でこのような改名をすることになったのか、この冊子には述べられていないが、当社に専任神職が置かれ、宮座がその役割を終えた、その時期のことではなかろうか。  なお上記の内、高津此面(このも=久右衛門利久)の子は「高津彼面(かのも)」と称した。砂糖商・高津久(こうづきゅう)の名で大をなし大邸宅を後に市に寄付(現・天下茶屋公園)した高津久右衛門はこの人だったと思うが・・・、「高津よね」という女傑もこの家系の人である。(正確なことは、またいつか書く) <↑上記を2021年5月5日、↓下記の通り訂正する。> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「大邸宅を後に市に寄付(現・天下茶屋公園)した高津久右衛門」は、「高津彼面(かのも)」の娘「高津よね」の入り婿となって、 第19代「高津久右衛門」を襲名した旧名「八条八十吉」という 人(明治元年生れ~昭和26年没)である。  なお、「高津よね」は商才に長け、鈴木よね・岩崎よねとともに「砂糖界の三ヨネ」並び称された。(梅林喜久生著『実録相場師』を参照)