阿部野の起源「安倍寺」の遺址発見さる(大阪毎日新聞 昭和十年十月二十日)

阿部野の起源「安倍寺」の遺址発見さる

松崎町松長大明神裏手の丘礎石や瓦片を発掘

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大阪「阿部野」の名の起源をなす 「安倍寺」の遺址が十八日天王寺松崎町二丁目三六松長大明神裏 手の丘から発見され、従来史家の 謎であった同寺の全貌が明らかに なった――

    同寺は聖徳太子伝「古今目録」
 の中に「四天王寺末院の事、真
 興寺安倍寺是歟」と記されてお
 り、また「安倍寺千軒」とて堂
 塔、伽藍、坊院など大規模な寺
 域を有し阿部野界隈の繁栄の中
 心地域をなしていたらしいが、
 的確な遺址が見当たらず僅かに
 常磐通元一本松跡に藤原時代の
 ものと見られる礎石らしい石と、
 大正年間その付近から出土した
 単弁瓦の破片によってほゞ寺域
 が確定されていた程度であった
 が

十八日の発掘で飛鳥末期の形式を
備えた塔礎石(長さ六尺六寸、幅
四尺三寸で中央に径四寸深さ二寸
七分の舎利孔あり)と同礎石の南
方約一間の個所から松香石の尺角
敷石、壺形のもの、布目瓦破片十
数個が出土した。この礎石によっ
て計算すれば三間四方八十尺の塔
が建てられてあったことがわかり、
舎利孔のある点から見て四天王寺
同様 塔中心の伽藍らしく 従って
前記一本松の礎石は塔礎石の真北
に位し恐らく金堂の跡と推定され、
伽藍の遺構が判定され郷土史上に
一大示唆を与えるに至った。

   なおこの地は高津の砂糖商高津
 久右衛門氏の私有で約十二坪の
 丘地であるが「手を入れると祟
 りがある」と言い伝えられ荒廃
 に任せてあったが、昨今の大雨
 で表面の土砂が流れ礎石の面が
 現れたもので、所有主は不気味
 な言い伝えもあるので天満宮
 学部藤里好古氏に話し、同氏は
 数名の考古学者とともに実地踏
 査の結果前記遺址であることが
 判明するに至ったもので十八日
 朝高津神社神官を招いて修祓の
 後、鍬入れを行い午後発掘物を
 得たが高津氏は盗掘をおそれて
 発掘物は天下茶屋の同氏邸に搬
 入し現場には木柵を施しそのま
 ま保存することにした。