中濱の高津氏と四天王寺諸堂の鍵

 中央区の高津宮の旧・宮座の家筋には高津七家と言う七軒のお家があった。
 高津(こうづ、またはたかつ)などという名字は珍しくもないのかもしれないが、同じく中央区森ノ宮・鵲森宮の祭司関係に「高津氏」の名前が出てくるとは意外だった。
 一昨日のブログを書くために『東成郡誌』上巻を繰っていて気がついた次第である。そのP654に、
中本町>旧家>高津氏 という項目があって、
「其本邸大字中濱にあり。玉造森の宮の祭司たりしが、今より二百五十年前中濱の地に帰農し百姓総代を勤め、文政の頃(*1818〜1829)より庄屋となり、明治維新まで継続せり。代々太郎左衛門と名乗る。現戸主與三郎は直胤にして、町会議員なり。中濱に関する二百年以後の記録は多く當家に蔵す」
と記されている。
 或る文書に、鵲森宮の由緒を記して曰く、
人皇三十三代崇峻天皇二年秋七月、聖徳太子御祈願に依て、四天王寺の像を造り、大伽藍を玉造浪の岸に建給ふ」(*この神社の付近)
日本書紀推古天皇巻曰 秋九月是歳始造四天王寺 於難波荒陵云々。今の四天王寺是也 かくことごとく引き移し給ふといへとも 天皇の御宮併亀井[亀井の来由 別に古老口伝あり]神宝等別て諸堂の鍵は其の儘當宮に残し置給ふ。天王寺諸堂の鍵、今九十年已前迄當宮ヨリ雖為支配 其比神主中絶 高津氏何某百姓持ニテ 支配面倒ニ思ヒテ何トナク渡シ 天王寺ニ留置ケレバ 今當宮ニハ無之」
以下略すけれども、真偽の程はともかくこの文書は実に実に面白い。

 郡誌とこの文書の記述を総合すると、この高津何某は大体1670(寛文10)年前後の頃に中濱村に帰農すると同時に諸堂の鍵を四天王寺に引き渡したように読み取れる。
__________________________________________________________________