「祀った霊は取り外せない」???

馬鹿げた言説(2例)のメモ

● 「中国ならびに日本の一部にA級戦犯分祀してはどうかと言う人がいますが、これも神道の約束事として不可能です
 神道では合祀された御霊はひとつの大きなロウソクの炎に喩えられます。分祀とはその炎を別のロウソクに移すことです。
  炎の中から特定の部分だけを取り出すことができないのと同じように、御霊の中からA級戦犯だけを取り出すことなど不可能なのです。」
【決定版・日[VS]中韓大論争『靖国参拝の何が悪いというのだ』(「文藝春秋」H17.8.1号、P99)田久保忠衛氏の発言】

● 「中曽根康弘元首相や小沢一郎民主党代表、古賀誠自民党元幹事長ら多くの政治家が「A級戦犯分祀」に言及していますが、いずれも「分祀」を取り外すという意味で使っています。本来の「分祀」の意味と違い、混乱を避けるためには、「分離」「取り外し」などという言葉に言い換えるべきかも知れません。もっとも、言い換えたところで、いったん祀った霊を取り外すことは、神道の祭儀上、不可能です。」
A級戦犯分祀求める声に「異議あり」 『祀った霊は取り外せない』 (「産経新聞」H18.8.6 第・面)論説委員室・石川水穂氏の署名記事】

※ 両者共に靖国神社のインチキ理論を鵜呑みにして同じ事を言っている。
石川水穂氏は「取り外す」などと、まるで看板か何かを取り外すような、珍奇な表現をされているが、私は早くから、神霊を分け遷(分遷)した史実が存在することを述べている。しかも、そのことを産経新聞社のかなり偉い人に直接伝えてあるのだが・・・・・。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi
/2006/04/miotukusi060425.html(『靖国分祀」と「分遷」)

 ”神道の約束事”・”神道の祭儀上”などと、一体どのような教典、どのような祭祀規定、どのような学説に基づいて主張しているのか。
 仮に、密教を例にとると、流派によって種々の聖教(「しょうぎょう」=経文や次第など)や口伝が存在するようだ。神道の場合も、明治以前は吉田神道(唯一宗源神道)・山王一実神道両部神道等々いろんな流派があって、それぞれにムツカしい約束事(ことさらに複雑・難解な教義や行法をひねり出して)を伝授してきたが、明治以後、神社制度の整備・改革に伴って、祭祀の行ない方すなわち祭式は全国的に統一された。それには[分遷不可]などという規定はどこにもない。
 千年も続いた古社であれば”古伝”などというものが存在するのかも知れないが、明治以後に創設された靖国神社にそんなものがあるわけがないではないか。(もっとも、新規に「靖国教」を創立して[分遷不可]という教義を立て、それを主張することは可能だろうが、その場合は、古来の神道を継承しているような顔をしないでほしい)


※ 民主党の議員さんが一人、神田明神の事例と併せて、この大宝二(702)年の「分遷」の史実を認識してくれたようだ。(長島昭久 WeBLOG 『翔ぶが如く』「戦争責任と靖国問題http://blog.goo.ne.jp/nagashima21/ )
  【分祀については、「靖国神社神道の信仰上ぜったいにあり得ない」との見解を発表していますが、神道においては複数の祭神の一部を分離して別の場所に遷す(分遷遷座)ことは、記録に残っているだけでも8世紀以来行われているそうです。たとえば、数週間前の『AERA』には、明治政府が神田明神から平将門の霊を将門神社に遷した事例が紹介されていました。】
※ 反対論者は神田明神の事例に対しても、素直に認めようとはしていないが、「分遷」が可能か不可能か、答はそのうちに必ず出るだろう。
 

<追記>
1本のローソク様へ
 拙文をお読み頂き、たいへん恐縮に存じます。
 正直に申しますと、私は神田明神の将門社分遷のことは以前から存じてはおりましたが、靖国問題に対しては必ずしも適切な事例とは言えないのではないか、と考えておりました。(アエラは未だ読んでいないので、確かなことは言えないのですが)その理由はこうです。大己貴命平将門公の二柱の神のみ霊代が元々二体であったとすれば分遷できることは自明なこと(境内・境外に拘わらず)と思われますので、み霊代が一体であるとされる靖国神社の問題にはピッタリとは当て嵌まらない可能性があるように推測されたからです。正確に表現しますと、当て嵌まらないというよりも、靖国神社の主張する「神霊はろうそくの炎」という詭弁によって簡単に逃げられてしまう可能性が高いように思われました。つまり、神田神社の場合は元々ろうそくが二本なのだ、と言われてしまうと議論がそれ以上深まらないからです。
 私は逆に靖国神社さんにお尋ねしたいのですが、北白川宮合祀の際には別途に神座を設けて、つまり一般兵士のろうそくとは別のろうそくを用意してそれに点火したようですね。筑波宮司が合祀を保留していたA級戦犯の人たちの霊(特に、処刑されたわけでもない松岡外相らの霊)を、松平宮司は本殿に合祀する際、どうして一般兵士のろうそくに点火したのでしょう。皇族の神霊に配慮するのと同じ位の敬虔な気持ちで一般兵士の神霊にも配慮してほしかったと思います。
 東条さん自身が「戦役勤務起因」に限るという合祀基準を出されている、その主旨から言っても、松平宮司の合祀強行は不当だったと思います。不当な合祀を強行しておいて”神霊がもう合体してしまったから取り外せないよ”などというのは、大金を盗んでおいて”もう遣ってしまったから返せないよ”というのと同じだと思いませんか?。”殺してしまったから生き返らせないよ”というなら、まず謝罪をすべきです。
 はっきり申しますが、戦地で散華あるいは病没した兵士の神霊と、そうでない人の神霊が神主さんのノリト一つで合体して(くっついて)離れないなどという神道理論か何か知らないが、そんな馬鹿げたリクツを私たちは信用などしてはいないのです。
 神主さんにそれだけの”通力”があるなら分け遷すことも容易なはずです。
 要するにそんな神学論争など元々無意味ですが、一応、靖国神社のレベルに合わせて論じてみただけです。