「難波津の歌」についての雑記【再録・追記】

[猪飼野]「難波津の歌」についての雑記

兵庫県たつの市の旧家・八瀬家に伝わる 諺文 「難波津の歌」の書の、ハングル表記について、解明を要する点がいくつか存在する。
(書の右肩に「朝鮮諺文」と記されている)

1.筆者
書幅(注*)の左端に次の署名がある。
対州府朝鮮前伝語官□雲明書

イ)伝語官 という役職名存在の裏付け。

ロ)□の部分は「鍾」の字に非常に近い。しかし、そうであるのかどうか。

ハ)「鍾雲明」と仮定すれば、「鍾」は韓国人の姓には確かに存在する
(『韓國人의族譜』(韓国人의族譜編纂委員会編、日新閣、1977年)。
「雲明」は坊さん風であるが、どうなのか。

ニ)歌詞の「なには」をこのハングルでは「나니와」=「ナニワ」と発音通りに表記している。
 一方、「いまをはるへと(今を春方と)」をこのハングルでは「이마오하르혜도」、つまり、発音通り(=ハルベ)ではなく、歴史的仮名遣い風に「ハルヘ」と表記している。
 すなわち、この書のハングル表記は、完全な”発音式仮名遣い”でもなく、完全な”歴史的仮名遣い”でもない。つまり、チャンポンである。このアバウトさは何に起因するのか。時代か、筆者の身分階級・出身地(日本or朝鮮)などによるものなのか?。
 
 なお、猪飼野在住でハングル墨書の書家として特に著名な「康秀峰(カン・スボン)氏の鑑定によれば、
1.この筆者はよほど かな文字の書に習熟した人であろう。そうでなければ、このような流麗なハングルを書けるものではない。(韓国の書家の作品を掲載した図録を私に示し)ハングルという字形はマルと直線で構成されているため、どうしてもこのようにハンコで押したような書体になってしまう。
 わたしにもこの書のように上手くは書けない。

2.この書の全体の構図をみると、3文字目の「와」の一字に30パーセント以上の工夫が凝らされている。一つの文字の中に3つの輪が描かれていてすばらしい。
3.わたしが作品を書く場合も、全体の構想を練ってから、書くときは一気に書く。하르 を할と一文字のように書いている点、また、最後の하나の2文字は縦棒が二つ続くが、一文字目の棒は力強く止め、二文字目の縦棒をスッと細長く流すように書いている点など、大した力量だ―と極めて高く評価された。


● この書幅は、1990(平成2)年7月、八瀬正寿氏が天井裏に残されていた行李の中から取り出された段階では、和紙を丸めただけのものであった。これを軸装したのは、1994(平成6)年4月上旬以降のことである。(八瀬正寿氏談による)

● 『辛基秀と朝鮮通信使の時代』(上野敏彦・2005年・明石書店)の記述によれば、辛基秀と大阪歴史博物館学芸員・大澤研一が「(1994年)秋に大阪城公園内で開いた朝鮮通信使展準備のため」「この年四月に兵庫県龍野市の旧家へハングルで墨書きされた古今集の和歌を鑑定に行った」となっている。つまり、当時、大阪城公園内にあった大阪市立博物館(=大阪歴史博物館の前身。2001年閉館)で展示のために軸装されたものである。
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●『朝鮮通信使―善隣友好の使節団―』(大阪市立博物館・1994.9.13刊)
    作品写真掲載は本文77頁(67番)。
    (写真は紙本部分のみ。軸装の布部分は写っていない)
 目録編集・作品解説 大澤研一 の解説文は下記の通り。

 【67 和歌(古今和歌集仮名序より)    一幅
紙本墨書 一三八・四×一四・五  (※法量はすべてセンチメートル。縦×横)
   
 ハングルで、古今和歌集仮名序にみえる「難波津に咲くやこの花冬籠り
今は春べと咲くやこの花」の和歌を書く。対馬藩における朝鮮語の通訳である
伝語官をかつて務めた人物(□雲明)の書である。このような書の作品は
たいへん珍しく、ハングルを流麗な筆の運びで書く伝語官の力量を示す作品
として興味深い。本紙右上に「朝鮮諺文」の墨書がある。】
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【以下は、8/24の追記である】

●「長さ百三十八センチ、幅十五・三センチの和紙には、大阪に春を告げる祝い歌が、日本のかなの音をハングルに置き換えた文字で鮮やかな筆致で書かれていた。対馬の通訳の落款があるので、春の訪れと使節の訪日を祝って通信使の一行に贈ったものらしい。
 当時は日本も朝鮮も互いの言葉を自由に使える優秀な通訳がいるほど文化交流の質が高かったとして、辛基秀は深く感銘を受けていたという。」
             (前掲『辛基秀と朝鮮通信使の時代』P291)