猪八戒の素性(続)

[猪飼野]猪八戒の素性(続)

 南方熊楠『十二支考3(東洋文庫版)』「猪に関する民俗と伝説(三)P194」に、
「豕(=平斎注、ブタ※)が多食、好淫、懶惰で、穢いことを平気というは世に定論あり。『西遊記』の猪八戒は、最もよくこれを表したものだ。(西遊記中の猪八戒の行状を挙げて)・・・など、そのこともっぱら家猪に係り、猪八戒は豕で、野猪でないと証明する。」
と論じている。
 ※「特に野猪と書いた場合はイノシシに限り、単に猪と書いたのは家猪、野猪を並称し、もしくはいずれとも分からぬを原文のまま採ったのである。豕と書いたのは家猪のこと、豚はもと豕の子だが、世俗のままにこれも家猪に適用しておく。」「家に畜(か)う家猪に対して、野生の猪を野猪または山猪、和名クサイナキ、俗称イノシシと言う。(同書P165)」
 ※この十二支考の猪の項は、亥年である大正十二年、博文館の雑誌『太陽』29巻7号に掲載されたもの。


 武田雅哉猪八戒の大冒険』(1995 三省堂)の第2章「八戒はブタである」に、
① 南方熊楠は、猪八戒の特徴を挙げて、それらが家猪のものであり野猪のものではないと説いているが、
② 八戒は、家畜としてのめすブタの腹に生まれたので、明らかに野生のイノシシではなく、ブタであろう。
③ ただし小説『西遊記』のなかでも、必要に応じて「野猪」が用いられ、イノシシの獰猛、粗野なイメージが強調される場合もある。
④ いずれにせよ、猪八戒はブタなのである。
⑤ 家畜として人間の胃袋に入るために生まれ、育てられ、屠殺されるという、生物としては不条理このうえない生を強いられている動物としてのブタ、人工動物としてのブタなのである。
⑥ ぼくが、猪八戒はイノシシではなくブタであるということを強調したいのは、それが、これからの猪八戒理解にとって、重要な意味を持つに相違ないからなのだ。
 
※ 上掲①〜⑥は、P32〜33の見開き、真ん中部分の一続きの文章である。ナンバーは、説明の必要上仮に私が付した。
 
 武田氏の論理(上掲②+④)では、
猪八戒は、めすブタの腹に生まれたので、いずれにせよ、明らかに、ブタなのである」
とのことだ。
 しかし読者は、猪八戒が生まれ出た腹が「めすブタ」なのか「めすイノシシ」なのか、そこの所の確かな根拠を知りたいのであって、無理やり「いずれにせよ、明らかに、」と強弁されても、肝心の点がスッキリしないのである。
 南方熊楠のお墨付き(「野猪でないと証明する」)も武田説③のようであってみれば、説得力はいま一のような気がする。


 小説『西遊記』(全百回)のなかで、猪八戒の素性について書かれた部分は「第8回」と「第19回」の2回である。
●「第8回」は、
・(平凡社版)=観音菩薩と猪剛鬣(八戒)との対話「そちはどこの化けいのししか、もしくは、いずれのいたずら豚か」→「(天界から下界に落とされ)胎内に宿ったはいいが、それがめす豚の腹の中。」(平凡社版)
・(岩波版)=「そなたはどこの化けもの野ブタかね? どこでわるさをしている古ブタかね」→「・・・牝ブタの胎内に投胎しちまい、こんな姿に・・・」巻末の訳注によれば、『李卓吾本』の原文は 野ブタ←野豕 古ブタ←古彘(テイ。彑+比+矢)。
※牝ブタの原文は示されていない。

●「第19回」は、
・(平凡社版)=孫悟空の説明「あの怪物は、もともと天蓬元帥が下界にくだったものだが、誤って野猪(いのしし)の腹にはいったため、まるで野猪そっくりとなったが、・・・」
・(岩波版)=「投胎する胎(はら)をまちがえてしまったせいで、野猪(のぶたそっくりの顔かたちになっちゃったんです」

※(平凡社版)の原本『西遊真詮』と(岩波版)の原本『李卓吾本』のこの部分の文字が同じなのか違うのか、どちらも原文が示されていないので分からないが、訳本のルビが微妙に違う点がどうも気になる。

 
 因みに、中文の児童書『西遊記―取経伝奇』(2003 台北:幼獅文化事業股份有限公司)によって、その(牝ブタの)該当個所(P73)を見ると「錯投到母豬的肚子裡」となっている。真詮や李卓吾本がどうなっているのか知りたいところである。もし「母豬」だとしたら、それだけのことでイノシシではない、ブタだ、と決め付けるのは聊か論理が粗雑すぎるだろう。
 熊楠先生も書いておられるように、「単に猪と書かれた場合は家猪、野猪を並称し、もしくはいずれとも分からぬ原文」もあるわけである。例えば「猪突豨勇」の場合、この猪・豨はブタである、とは断定できないはずである。

 
 以上を通観すると、(岩波版)は、「第8回」で野豕を野ブタと訳した都合上、「第19回」の野猪をも(のぶた)と訳して整合を図っているわけだが、野猪はふつうイノシシを指す言葉であることから言えば、少し無理をしているような観もある。

 ただ、岩波版第18回訳注に「猪剛鬣」の名についての説明がある。
「鬣とは、馬のたてがみのことであるが、剛鬣とは、古代では祭祀に供するブタの意であった。したがって猪剛鬣という一見ものものしい姓名は、訳せばブタ・ブタとなる。」(※「祭祀に供するブタ」の典拠は、武田氏によると『礼記』)
 これは「八戒=ブタ説」にとって、結構有力な証拠と思える。

 結局、細かい点では疑問もあるが、総体的に言えば、猪八戒の(団扇のような)耳の大きさや、剛鬣の語の意味からすれば「八戒=ブタ説」はどうやら間違いさそうだ。そのブタは「イノシシに似ている中国ブタ」(=實吉達郎『西遊記動物園』1991 六興出版)なのであろう。

 ただ、武田雅哉猪八戒の大冒険』「八戒はブタである」については、肝心の論証部分が粗雑で、結論だけが先走っているように感じられた。

*<9月のことはこれで一段落>*

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<追記 10/6>
 ウィキペディア猪八戒」の項には、
・ 日本で初めて猪八戒をブタであると正しく訳したのは、新聞記者・随筆家の弓館 小鰐である。東京日日新聞に連載され、1931年に改造社から刊行された弓館訳『西 遊記』の中で使われた。なお、それ以前の『通俗西遊記』(1858年)などにおいて は、イノシシであると訳されていた。
また、同「弓館小鰐(ゆだて・しょうがく)」の項にも、
・ 『西遊記』における猪八戒を「ブタ」だと正確に訳した初めての人物である。それまでは「イノシシ」と誤訳されていた。
・ 名文家と評されることがしばしばであり、特に『西遊記』などの翻訳の評価は高い。横田順彌は「『西遊記』など、何種類読んでいるか見当もつかないぐらいだが、いまだに、この弓館訳の右に出る訳に出会わない」と評している。また、筒井康隆は「この本、もし古本屋で見つけたかたは絶対にお買いなさいね。損はしません。スマートなギャグはまことに秀逸」と評し・・・
と、小鰐という人の功績を大いに持ち上げている。

 でも、そんなに大したものなのだろうか?。南方熊楠は大正十二年にすでにそのことに言及している。しかも、小鰐の『西遊記』(1939・昭和十四年、第一書房刊)を見て見ると、成程「八戒お目見得」の章P51・52では「豚婿」「豚君(とんくん)」と書かれているが、それより前の「五行山に監禁」の章P33には「道に迷い猪(いのしし)の胎内に入ったため」と書いている。
 彼の作品のどこがそんなに大したものなのか、私にはよく理解できない。