百済野と「鶯の丘」

[猪飼野]百済野と「鶯の丘」

 先日、知人のMさんが毎日新聞の『わが町にも歴史あり―知られざる大阪―』という連載記事の数回分のコピーを下さった。
 発行日、連載の回数(第何回)、タイトル をメモしておくと、
2007.7. 6(55) 百済野        <大阪市生野・天王寺区> 
2007.8. 3(57) キョンチャルアパート   <大阪市生野区
2007.8.10(58) 旧 木野村            <大阪市生野区
2007.9. 7(60) 橋三題(耕整橋・生中橋・寿橋)   <大阪市生野区
2007.9.21(62) 平野郷            <大阪市平野区
の5回分であった。

 この中で、特に興味を覚えたのは、第55回の百済野」の号であった。
 そこに「是ヨリ西南 鶯の丘」と刻まれた石碑の写真が載せられていた。この石碑は見たこともなく、どこにあるかも知らなかった。(道標の調査報告書で見た記憶はあった。後述する)

 今日、所要で自転車で出掛けたついでに、その碑の所在を確かめるべく、細工谷の辺りを探訪した。はじめは漫然と徘徊して見たが、これでは埒があかないと悟り、天王寺図書館へ飛び込んでみたが、カウンターの女性は二人とも忙しそうにしていたのと、多分聞いても知らないだろうな―という気がしたために億劫になって聞くのをやめた。
 図書館を出て少し東へ下った所に、熊野屋という煎餅屋さんがあったのでそこで聞くことにした。「石碑のことは知らないが、現在広い道路になっている辺りに昔<鶯ヶ丘広場>というのがあって、盆踊りなどをしていた記憶がある」という耳よりなお話。次いでお隣のクリーニング屋さんへ聞きに入る。「石碑は見たことがある。もう少し東へ下ると[たわら]というトンカツ屋さんがあるから、そこを左に曲がってずっと行って、広い道路に出た辺りで聞いて見たら」とのお答。広い道路に出てから、少し西へ行くと、【百済尼寺守護】細工谷北向地蔵尊の前に着いた。

 すると丁度そこへ犬を連れたご婦人が西の方から歩いてきた。「そちらの方へ帰る道筋だから」とのことなので、これ幸いと並んで付いて行った。その場所は天王寺区細工谷1丁目1番の東端辺りである。(写真↓・10/4撮影)

 家へ帰ってから、昔見た記憶のある文献で確認した。それは『大阪市立博物館研究紀要 第3冊』というもので、その中に
   <調査報告書>大阪府下の道標(1) 岩井宏実
が収録されている。
 件の石碑は、誤って「生野区細工谷町十七」記され、生野区に分類されていたために捜すのに少しだけ手間取った。そして細工谷町十七という番地を古い地図で確認すると、上記の場所とは異なるのでおかしいな―とは思ったが、天王寺区生野区に書き誤る位だから・・・、と深くは気に留めなかった。
(つづく)