丹波國天田郡 生野神社

[社寺]丹波天田郡 生野神社

●『福知山市史』第一巻「生野神社」の項(『丹波志』の現代語訳)
 「当時は境内およそ方百間余で、山林古木多く麓に社があり、社家はなかった。
 いにしえこの神を産土神として祭礼に預かった村数八つ、すなわち三俣村・池田村・堀越村・上野村・生野村・坂室村・萩原村・正後寺村であった。今各村に別社を斎き祭っているが、本居としたのはこの神社であったと村老は伝えている。また芦渕のタマコという小字に流鏑馬田という所があり、いにしえ御幣神社の祭礼に預かったともいう。生野というのはもともと前記八ヶ村を総称するので三俣が本村である。いま生野庄ともいっている。
 生野町より北に坂があり、十間余下って平地がある。ここに今萩原村に雲田と字する田地がある。ここは上古明神が天降りたもうた古跡である。若宮と唱えている。(古跡部・名所部に出ている)天鈿女命が天降りたもうた時、紅簾の牛に乗って下られたといい、その尊体が鎮座しておられたところ、いつのころか氷上郡余田(※よでん。現・兵庫県氷上郡市島町)へ持ち行き今そこにある。いま余田で開帳があるのはこの神体である。
 現在の社地より二十間ばかり前に一段高い所がある。いにしえの鳥居のあった所である。石場が残っている。
 また同所より西へ六十間ばかりの所に畠に二間四方の塚がある。昔の御旅所のあとであると云い伝えている。
 昔は山上に社があり、往来の武士に祟りがあったので、中古麓に移し祭ったと云われ、元禄年間から正一位御幣大明神の額をかかげた。その後神のおとがめは無いとか。上古は【六人部七箇(注)】の大産神だったと云う。いま生野八ヶ村がこれを尊敬している」
(注)中世末から近世初期には六人部庄が上四箇下三箇、合わせて六人部七箇に区分された。生野庄・大内庄・長田庄の三つを下三箇と言った。ここでは上4・下3の計7箇全体の総氏神だったが今は生野庄八ヶ村だけの氏神だと言っている訳である。
●玄松子の記憶【生野神社 いくのじんじゃ】http://www.genbu.net/data/tanba/ikuno_title.htm
より一部転載
 京都府福知山市三俣531  
 式内社 丹波天田郡 生野神社 旧村社 御祭神 天鈿女命
 福知山駅の南西12Kmほどの三俣に鎮座。9号線を南西へ進み、舞鶴若狭自動車道を越えて3Kmほど。9号線から少し北へ入った場所、小学校(平斎注:上六人部小学校)の北に、南向きの境内がある。

 祭神は天鈿女命。歌舞音曲の神であるとともに天孫瓊々杵尊の天降りにおいて立ち塞がった猿田彦神を懐柔し、道中無事であったことから旅行道中の守護神としても崇敬され、山陰道を通って参勤交代する各大名は、必ず参拝して道中の安全を祈願したとか。

 古社地である裏山には、雄岩、雌岩という岩があると伝えられひょっとすると猿田彦神も祀られていたのかもしれないが未確認。

 境内入口、鳥居の右手に「式内生野神社」と刻まれた社号標があり、鳥居の左手に由緒を記した案内板。
−社頭由緒板−
式内社 生野神社記(御幣神社(みてぐらはん))
式内社とは 延長五年(九二七)藤原忠平によって調査され、延喜式目に選上登録された中央政府にも相当名の知られた神社のことで、当市内に四座ある。
祭神は 天鈿女命で平和な舞踏や音楽を愛好されると共に、九州から伊勢まで男神を無事送り届けられたという勇ましい女神様でもある。
徳川時代の参勤交代には、当地方の領主綾部藩の九鬼氏をはじめ、福知山、舞鶴宮津、峰山、豊岡、和田山等の大名が行列美々しく此の道を通る時は、必ず参拝して長途旅行の安全を祈願し、神前の榊の枝葉を戴いて御守とし、帰途これを返納したので以来、旅行、出張、転勤、外遊等の生活と道中安全の神様として有名である。
社殿は 慶長年間(一六〇〇)関ヶ原の戦の頃、社殿の改築があり、更に元禄年間(一七〇〇)忠臣蔵討入の頃、神祇管領より正一位を授けられているが社殿は後の山上にあった。
明治六年(一八七三)生野神社と改称、昭和四年(一九二九)拝殿改築、昭和八年(一九三三)社務所を建てた。
【御幣神社】 鎌倉時代(一二〇〇)から江戸末期(一八〇〇)までは、みてぐらはんと称えていた。これは、綾部藩主九鬼氏が生野に倉庫を建て上納米を取立てていたが、毎年当神社へ御供米を奉献していたので、御幣(みてぐら)と呼ぶようになったという。
祭日は 春季大祭四月十一日で、子供相撲や、剣道大会が奉納され、秋季大祭は十月十日で市内随一の、重量一一二五キロで、八十人の氏子が奉仕する金色燦然たる御神輿を、子供樽御神輿や御幣太鼓三基が綾部藩奉納の武具行列と共に、勇壮な奴毛槍道中が繰りひろげられるのも名高い。
氏子は 三俣、池田、堀越、正後寺、坂室の約二五〇戸(平斎注:「明治十九年故ありて生野・上野・萩原は分離せり」(荒樋太市『延喜式内生野神社』に拠る))で、全地域を御神輿が巡行し、各区の御旅所で休憩するが、江戸中期には、下六人部学区の多保市の西和田ノ前という所に六メートル四方位の岩塚があり、その附近が、中六人部学区の一宮神社の御神輿を、上六人部学区の御幣神社の御神輿と、立会祭礼の御旅所であったともいう。
【御加護】 いづれにしても、地域社会の発展と商売繁盛、家内安全、学業成就、歌舞音曲の上達や旅行道中交通安全の神様として、御加護はすばらしいものがある。               謹白
          昭和五十八年(1983)十月十日       奉納 氏子総代一同

●Punkt und Linie 〜神社仏閣巡りと旅の風景〜
は よい写真が多数掲載されている。
http://punktundlinie0516.seesaa.net/article/200714858.html
●山城賛歌 三俣城跡(京都府福知山市
http://ktaku.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-e78c.html
には 貴重な図面が掲載されているので転載させて頂く。

土師川の橋を渡った所で道がY字型に分岐している。そこから三俣の地名が起こったのだろうか? その三叉路を北東方向に進むと綾部市安場町方面に至る。その府道沿い右手に池があり、そこを左手に取ってかなり進んだ道の傍に「平石ぽんぽん岩」というのがある。 
 北西方向は山陰道である。
●『式内社の研究』第4巻・山陰道編(志賀剛・1981年)【生野神社】に、
 「生野は山陰道の要駅で綾部への道の交叉するところ、「大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」の有名な古歌によって都人士にも知られていた。
 社は北から突き出た崎の三叉路の所で鬱蒼たる森の中にあり、学校(昔は役場)の裏にあたる。元はこの崎の「上の段」にあった。
 社地より二十間ばかり前に高い所があり、昔は鳥居があった。」と記す。
※ 「上の段」は小字名のようだが(『特選神名牒』)上図の三俣城の部分に該当するのだろうか? 但し「山城賛歌」では 三俣城跡としているが、地元の人の話によると戦時中【珪石】を採掘した跡だとのこと。
 昔鳥居があったとされる”高い所”というのは”学校”敷地の一角に当たるようだ。