『東成郡神社関係史料』発刊

heisai2007-08-01

[神仏]『東成郡神社関係史料』発刊 (大阪市史史料第69輯 大阪市史編纂所)
解 題

  はじめに

 「東成郡神社関係史料」と題した本輯には、【1】玉造稲荷神社旧社家・栗岡家文書 【2】玉造稲荷神社所蔵文書 【3】旧中浜村・白山神社所蔵文書 【4】旧本庄村・八王子神社所蔵文書の四つの史料群を収録した。
 玉造稲荷神社宮司、鈴木一男氏)は、大阪市中央区玉造(旧半入町)に鎮座する旧府社で、大坂城の守護神とも称された市内有数の名社である。同社旧社家栗岡家の子孫であり、大阪市東成区に実家を持つ栗岡博良氏が、【1】を大阪市史編纂所に持ち込まれたことが本輯編纂の端緒となった。同文書は江戸前期の寛文五年(一六六五)から大正元年(一九一二)に至る百余点からなり、本輯にはその内から五〇余点を収めた。
 【2】は、明治四年(一八七一)から昭和十九年(一九四四)までの一四点で、役所への届出書・氏子への各種案内などがその主な内容である。明治期の「乍恐口上」「御届」などは、これ以外に数点所蔵されており、『まがたま』(玉造稲荷神社、一九八八年)に一部収録されているので、併せて参照されたい。
 【3】白山神社宮司、川井邦彦氏)は、大阪市城東区中浜(旧中浜村)鎮座の旧村社。この文書は同村の旧家である高津家の旧蔵にかかるもので、本輯に収めたものは、先年、白山神社の氏子である高津家から神社に寄贈された三点で、うち二点は近郷の「森之宮用明天王社」神主が中浜・鴫野の両村を相手取って争った裁判(公事)文書の写しである。「用明天王社」は、中央区森之宮中央(旧森村)鎮座の旧村社で、現社名は鵲森宮、通称森之宮神社。
 高津家文書の全容は明らかでないが、少なくともこの裁判に関する一連の文書がこの二点以外にも存在し、それが『かささぎ』(鵲森宮、一九八九年)に収録されている(後述)。
 なお、中浜村の高津家については、『東成郡誌』(同郡役所、一九二三年、中本村・旧家の項)に、「其本邸大字中浜にあり。玉造森の宮の祭司たりしが、今より二百五十年前(足代注、寛文十二年(一六七二)頃か)中浜の地に帰農し、百姓総代を勤め、文政の頃より庄屋となり、明治維新まで継続せり。代々太郎左衛門と名乗る。現戸主與三郎は直胤にして、町会議員なり。中浜に関する二百年以後の記録は多く当家に蔵す」と記し、鵲森宮の社記「摂州大坂 浪華森皇宮 来由」(『かささぎ』増補版、一九九六年所収)にも、「四天王寺諸堂の鍵」に関する伝承に「高津氏何某」が登場する。
 【4】八王子神社は、大阪市東成区中本(旧本庄村)に鎮座する旧村社。当社は明治四十二年(一九〇九)に同区大今里一丁目(旧西今里村)の村社・八剱神社を合祀した。本史料の伝来する八王子神社宮司の友田家は、本来、その八剱神社に奉仕した神職の家筋であるが、神社合祀に伴って合祀先の八王子神社に奉職することとなり、その子孫である友田譲氏(現宮司)に至っている。同家は、江戸時代、近郷近在の数多の神社を兼務しており、その兼務社の数の多さと範囲の広さに大きな特色がある。八剱神社の跡地は現在、八王子神社の御旅所となっているが、その境内の巨大な楠(大阪市指定保存樹)は今も「楠玉大明神」として信仰の対象となっている。?の文書については寛政九年(一七九七)から明治四十四年(一九一一)に至る約九〇点の内からその約半数を収録した。
 さて、本輯に収めた四つの史料群は玉造稲荷神社を介して相互に浅からぬ関連を有している。すなわち、【3】の場合は、用明天王社と中浜・鴫野両村との紛争に関して、玉造稲荷神社神主・高村加賀および大坂神崎町の町住神職・友田数馬がかかわり合っている。この友田数馬は、八剱神社(〜八王子神社)の友田氏とは系譜を異にするが、数馬から五代のちの子孫・参馬が下記・友田一真とともに玉造稲荷神社祠掌として奉職している。
 【4】の場合、明治の初期、八剱神社祠掌友田一真玉造稲荷神社(当時の社格は郷社)の祠掌を拝命している。そのためこの友田家の系譜が【4】の「家譜」(77)と【1】の「摂津国東成郡第弐区郷社玉造稲荷神社由緒書」(4)の双方に重出するなどの例もあって、非常に興味深く感じられる。
 以上の各社は同じ東成郡に属する神社であるが、これらの史料群を同時に収録することにしたのは、右に述べたような相互の関連性という点に主な理由がある。近郷の各社相互の関係についての考察はさほど進んでいるとは言えないので、本輯はその方面の研究に資する点が少なくないであろう。


  一 玉造稲荷神社と社家

 当社は一名「豊津社」「豊津稲荷社」などとも称し、鎮座地は大阪城玉造口の真南に位置する。「手鑑拾遺」に文化年間(一八〇四〜一八)における市内の著名な神社一二社を挙げている。それによると当社には、「社務 高村市正・正神主 栗岡陸奥・神主 栗岡上総、栗岡主殿」と、都合四名の神職の氏名が記されている。他の神社に関しては、生玉社には生玉十坊が、御霊社には社僧・宝城寺が神主の名前と併記されているほかは天満天神社ですら代表としての神職の名は一名しか記されていないことと比較すれば、玉造稲荷社のこの表記は異例に属する。
 また、神社の門前に「祢宜町」の町名(『摂津名所図会大成』に「いにしえは三十六家祢宜居住せり」と記す)を遺していたという点も、大阪府下では他に類例を見ない。当社は古来大坂城と特別の関係を有しており、定番屋敷などの祭祀や祈祷なども執り行ったために、多数の神職を必要としたのであろう。上記の点は当社の特筆すべき、他社との相違点である。
 さて、本輯に収めた「摂州東成郡大坂玉造栗岡里豊津稲荷社草創之由緒年暦并祠官祢宜之座位記録」(1)によれば寛文年間には神主祢宜合わせて二九人の氏名が記されており、すべて「栗岡氏」を名乗っている。明治期においては高村氏一軒・栗岡氏三軒が神職世襲しており、栗岡氏の三軒はそれぞれ「西の栗岡」「東の栗岡」「北の栗岡」と称した。
 これらの家は明治期に逐次神社を離れ、四家のうちでは「東の栗岡」家・栗岡貞文が最後の「社司」(明治三十一年十月までの在職が確認される)であったが、この家は栗岡貞文以後、子孫が絶えたという。「西の栗岡」家、および高村家は子孫が繁栄しており、「北の栗岡」家の消息は現段階では不明。本輯に収録したのは「北の栗岡」家の文書であるが、近年「西の栗岡」家の子孫である栗岡博良氏が入手され、その所蔵となっている。
 この文書群の内【由来記・社家・社職・叙位】などは、当社の沿革の大要を知る上で最重要な部分であると考えるので、これらについて二〜三の要点を摘記しておきたい。
 【社家・社職・叙位】に収録した神道裁許状・許状のうち、最も年代の古いものは「寛文五年(一六六五)九月十七日」神祇管領・卜部兼連より栗岡左近丞吉清に授けられた「風折烏帽子紗狩衣神道裁許状」(12)である。それ以後、正徳・享保・宝暦・明和・文化・天保文久年度のものがある。「摂津国東成郡第弐区郷社玉造稲荷神社由緒紀」(4、明治七年、当社より大阪府参事宛に提出した文書)に記すところによれば、栗岡氏三家とも「家系の儀」寛文以前のことは不明であるとしている。
 栗岡家のもつ裁許状の最初が寛文五年九月のものであり、寛文以前の家系が不明であるというのは、同年七月幕府が「諸社祢宜神主法度」を発布したことに関連があろう。
 なお、この時「旧神官 高村市二」は同時に書類を提出しなかったため、この文書からは高村氏の家系を知ることができない。
そこで、本輯には収録できなかった高村家の家譜の要点をここに載録させて頂く(高村直氏提供)。
「高村家遠祖近祖代々霊譜」
 正信 任正神主 称中務少輔 元和八壬戌年五月廿八日帰幽
 正次 任正神主 称右兵衛佐 寛文五乙巳年正月八日帰幽
・屋次 任正神主 称兵部大輔 貞享五戊辰年五月廿二日帰幽
・屋長 任正祢宜 称式部   元禄十三庚辰年五月十八日帰幽
 正位 任正神主 称監物允  元禄十三庚辰年七月十一日帰幽(※一依霊神橘正位と記す)
 正長 任神主  称刑部大輔 元禄十三庚辰年八月四日帰幽
 尚祗 任正神主 称加賀守  寛保二壬戌年正月三日帰幽  (※正位ノ男)
 祗長 任社務  称監物   寛延元戊辰年十二月十四日帰幽(※尚祗ノ男)
 尚尹 任社務  称掃部頭  宝暦八戊寅年十月十日帰幽  (※尚祗ノ男)
 尚救 任社務  称市正   帰幽不詳          (※尚尹ノ男)
 尚香 任正神主 称権頭   天明七丁未年三月廿八日帰幽 (※尚救ノ男)
 尚興 任社務  称市正   文政六癸未年七月二日帰幽  (※尚救ノ男)
 尚武 任社務  称市正   文久三癸亥年三月廿四日帰幽 (※尚興ノ男)
 長幹 任正神主 称加賀正  明治十四年十二月丗日帰幽  (※尚武ノ男。辞職後、市二と称す)
 才二 住吉社家田中直衛ノ三男。高村家へ養子。
 一方、西の栗岡家に祀られている霊璽には、
・兵部亟橘屋長 正神主高村家相続 承応三年午五月廿二日(一六五四)  
・式部亟屋次  当家中興祖    元禄十三年辰五月十八日(一七〇〇)
 大炊允尚元  隠岐守隆羌父   寛保元年酉五月十五日(一七四一)
 橘隆羌    清々翁      文化十二年亥正月四日(一八一五)行年八四歳
 栗岡隆懿            文化四年卯七月廿八日(一八〇七)
 橘隆久    雀翁       嘉永五年壬子秋九月十九日(一八五二)行年七六歳
 橘量隆             文久二年壬戌秋七月五日(一八六二)五九歳
 栗岡御酒翁命          明治三十三年二月十三日(一九〇〇)
となっていて、大炊允尚元の前に、屋長・屋次という高村家と繋がりのある二人の人物の名が見られる。
 両家の記録を比較すると、屋長・屋次の官職名・没年が入れ替わっているが、どちらかが間違っているのであろう。一先ず記して後考に備えておく。なお同「由緒紀」には、三で記す友田数馬の略歴・家系も記されていて興味深い。
 なお、高村家から提供を受けた史料のなかに『高野参詣結衆募縁起』という刷物がある。これは安永五年(一七七六)に高野山金剛峯寺千手院谷明慶院現住順應が作成したもので、嘉永二年(一八四九)に「玉造稲荷神社内佛十一面観音由来記 高野山千手院谷 理源院改本王院」と記した表紙を付け加えたものと思われる。ここには、玉造稲荷に伝わる十一面観音像の由来について以下のように記した部分がある。
(前略)・に当院の本尊ハ十一面観自在菩薩也、ならびに境内の神社ハ豊津稲荷と称ず、倩々彼来由を尋に、去時慶長年中大坂兵乱の比何国ともなく異人来りて五寸八歩の十一面尊を当院に安置しける、院主霊異の事なりとて恭敬渇仰あさからずに常に鄭重に供養せらる、然に慶安年中或夜件の観世音つげ玉ハく我はこれ摂州東生郡玉造の庄豊津稲荷の内仏として久しく氏子の為に敬れ常に法威をそへていよ/\神力を増しむ、惣じては六道四生を化度すといへ共別してハ氏子を守護す、暫く此山に来に汝が供養せる事殊勝なれ共もだし難きハ氏人の歎き深重なれば、はやくわれを玉造の郷に護持すべしと告給ふ事再三なれバ、院主も奇異の思をなし、そも霊瑞の尊かなと急に仏工に命じて此尊を模しせしめて当院の本尊と成し奉り霊夢の尊をバ負笈して豊津の霊社に趣ける于時神人社僧一同ハ歓喜踊躍していわく、去ル慶長の乱に図らず尊容を失ひ久く歎に沈む、尓より丹祈をこらす処にかく霊験掲焉事の有難さよとて篤く謝せらる、院主も随喜の余り豊津の稲荷を故山の明慶院に勧請して因縁の浅からぬ事なれバ永く此院を守衛し仏法を繁昌せしめ玉へと念願を籠て鎮座成しめ奉る、尓しより豊津の氏人不思議の因縁なれバとて此山登臨の時ハ皆此院を尋て、終に師檀の契盟を結ぶと云々(後略)
これは『摂陽群談』当社観音堂の項の記述とも照応するものであることを付記しておく。

  二 玉造稲荷神社所蔵文書

(当サイトへの転載保留)

  三 白山神社所蔵文書 森宮・中浜村・鴫野村「産地改めの出入り」一件

 この一件に関する訴訟文書は、『かささぎ』所載の分と本輯に収録した分の計四点でうまく完結している。これを便宜的にA〜Dとしておくと、前者にはA〜C、本輯にはDすなわち結末部分が収録されていると理解されたい。
 この訴訟の要点は、Dの後半、「差上申一札之事」の中に集約されているので、この分だけで事は足りているとも言えるだろうが、一応全体を通観して訴訟の時間的経過を述べておきたい。
 Aは表紙に「森村用明天王神主近藤大隅後見龍翁願書 御十一判写 子十月」(子=宝暦六年・一七五六)と書かれたもので、本文の冒頭に「乍恐以書付奉願上候 産地改之出入訴訟人 近藤大隅幼少に付き後見 父 前神主 近藤龍翁」と記されている。訴訟の相手方は中浜・鴫野の両村、および大坂玉造稲荷社神主・高村加賀と大坂神崎町・友田数馬の両名である。その訴えの趣旨は、「摂州東生郡森村・中間(=中浜)村・鴫野村の三ヶ村は古来「森宮用明天王」の産地、すなわち氏子であり、この事は神祇管領長上吉田家より代々にわたって授与されている許状によって明白である。しかるに近来、中浜・鴫野の両村は森宮との氏神・氏子関係から離脱しようとして、それぞれ勝手に白山権現・八剱明神のほこらを建て、村の氏神と称している。しかも中浜村では白山権現のほこらを普請して正遷宮の神事を行う際、これを自分に隠し玉造稲荷神社の神主・高村加賀に依頼した。これは新規を企てることであり不法である」などというものである。大坂神崎町の町住神職・友田数馬は龍翁・中浜村民の双方と懇意であったので仲裁に入ったために訴訟に巻き込まれたものらしい。
 訴訟人・近藤龍翁は、宝暦五(亥)年十一月に大坂奉行所に出訴したが、同年十二月これを却下された。そこで翌宝暦六年九月、今度は江戸の寺社奉行所に訴えを起こし、「来る十一月二十五日、評定所へ罷り出で対決すべし」という奉行連書による「御裏書」を貰っている。
 Bは表紙に「宝暦六年 子十一月 産地改出入返答書ひかへ」とあり、その下方に「中浜村 鴫野村 高村加賀 友田数馬」と返答者側の名が記されている。これは三通あって、一通は中浜村・鴫野村(の庄屋・年寄など)の連名、あとの二通はそれぞれ高村・友田による返答書である(十一月二十二日提出)。
 Cは「大坂御番所帰国届」で「乍恐書付を以御断奉申上候」で始まる。届出人は中浜・鴫野の両村で、宛先は大坂奉行所
 中浜・鴫野の両村の人たちは十一月二十五日の評定所での対決のため、十一月六日に大坂を出立、二十二日に江戸に到着した。ところがその翌日江戸に出火があって裁判は翌月に延期となり、さらにこの時訴訟人龍翁が病に罹って又々延期、結局翌宝暦七(丑)年三月下旬に対決ということになった。そのため一旦国許へ帰ることになり、十二月四日江戸表出立、同十七日大坂に到着した、というものである。
 Dは、本輯に収めた「宝暦七年裁判書写」(73)である。表紙は『宝暦七年丑八月廿五日 産地出入ニ付 御裁判書之写シ』、その上部に「森宮 中浜村 鴫野村」と縦書きで三列に記されている。本文冒頭は「宝暦六年 子十一月、森宮用明天王神主近藤大隅父龍翁、中浜村・鴫野両村を相手取り…」から始まるが、子十一月の横に小さく「九月廿六日」と書き添えられている。
 「九月廿六日」(=宝暦六・子年)は龍翁が江戸の寺社奉行所に対して中浜・鴫野の両村を訴え出た日付、「子十一月」は被告側による「返答書」の提出日である。
 先のCには「翌丑年三月下旬に対決」予定と書かれていたが、このDでは、翌丑年三月二十八日に江戸表へ出府し、その後度々召し出され、五月二十五日に双方とも口上書を提出の上、七月に一旦帰坂し、八月二十五日に漸く裁きを言い渡されたことが記されている。
 そしてその判決は、この文書の後半「差上申一札之事」の中に示されているように、事実上、訴訟人である龍翁の敗訴となっている。
 龍翁が亥年十一月に始めて訴えを起こしてから丑年八月の結審まで約二年近く訴訟沙汰が続いたわけである。龍翁としては古来の伝承を根拠として訴えを起こしたに違いないが、中浜・鴫野両村にとってはまるで天災に襲われたような、迷惑千万な出来事だったであろう。
 ところがこれに関連して、『東成郡誌』(白山神社の項)では、「応永の頃迄は中浜・森・鴫野等諸村の氏神なりしが、宝暦七年には中浜一村の鎮守となり終れり」と、白山神社が主体であったかのように記し、この事は角川・平凡社両方の地名辞典にも引用されている(後者では宝暦を宝永と誤記)。
 この記事は郡誌の編者の取り違えなのだろうか。いや、おそらくそうではなく中浜村も森村に負けずに自己主張をしているのであろう。「応永の頃迄」というのは、鴫野村の八剱神社が「応永三年(一三九六)九月二十二日」の創祀を伝えている事と明らかに関連がある。この八剱神社の伝承とは「熱田の神がお告げをした上で小蛇の姿となって淀川の辺に現れ当地に入って留まった」というもので、これは宝暦年間、下鴨の神主某が当時宮座の者の間に伝わっていた伝承を記録したものであるという(『東成郡誌』鴫野・八剱神社の項)。記録した時期が宝暦年間というのは意味深長である。
なお、「乍恐返答(未完)」(74)は、上記Bの三通のうちの第一通(中浜村・鴫野村連名の返答書)とほぼ同じ写しの断簡であるが、『かささぎ』所載の分に欠落している返答人の氏名の部分がこちらにはあるなど、参考になる部分もある。

  四 八王子神社所蔵文書

この文書群中の白眉は何と言ってもやはり「為家名子孫相続規定之控」(84)・「摂河氏神兼勤村々神名帳」(91、明治四・一八七一年)などであろう。
 後者について一言述べれば、これは、東成郡西今里村・八剱神社神主友田家が往古より代々奉仕してきた村々の神社名を列挙したものである。それらの国郡別の内訳は、摂津国東成郡一五社、同西成郡三社、同島下郡二社、河内国茨田郡一四社、同若江郡四社、同讃良郡一社、同渋川郡一社となっている。摂津国東成郡とその東側に隣接する河内国茨田郡に概ね集中していると言える。
 この文書では、ここに記載された各々の神社毎に、「当社神事祭礼そのほか吉例ごとに往古より神主、この友田先祖より相続き勤め来たり申し候」という風に注記し、ほとんどの村の代表者の署名・捺印をとっている。ただ、例外的に神主ではなく神子(または巫女)と記すものが四例あり、その内の一例は、東成郡東小橋村の比売語曽神社で、この神社の場合は味原氏という神主家があったから、友田家の女性が巫女として祭礼に奉仕したのであろう(ちなみに、明治二十五年、友田一真の一年祭の斎主を味原正量という人が勤めている)。
 ここで興味深いのは、同郡大今里村・熊野太神(現・熊野大神宮)の例である。それには、「当社神事祭礼そのほか万事寺持にて御座候ところ、このたび御一新に付き、改めて神主友田に相頼み勤め来たり申し候」とある。当社は契沖阿闍梨で有名な真言宗妙法寺が社僧を勤めていたが、維新後の神仏分離によって俄かに神主が必要となったのであろう。ほかにも述べたい点は色々とあるが、紙幅の都合で割愛しておく。

  あとがき

 本輯に収録した種々の古文書は、旧東成郡域のみならず近傍の河内国諸郡等をも含めた村々の神事のあり方や、近世・近代の神社行政の様子などを知るための多くの手がかりを提供するものである。史料を公開して下さった栗岡・高村の両家、各神社宮司家、また栗岡家文書の翻刻にご協力を頂いた「河内古文書の会」会員、政野敦子(故人)・大東道雄・薮田武子各氏にも感謝の意を表したい。
 最後に、『村々氏神社神事祭礼并神職免許等之儀ニ付被仰渡候趣并御請書共』(『御幸森天神宮壹千六百年祭記念誌』二〇〇六年刊所載)なる文書について付言しておきたい。これは猪飼野・本庄・中浜・永田・左専道・放出の六ヶ村が神祇管領吉田家からの入門強要に対し、連帯して抵抗した時の模様を伝える文書である。今回本輯編纂にあたってもご尽力いただいた井上智勝氏(大阪歴史博物館)がこれの翻刻ならびに解説文の執筆をされており、本輯と内容的にも関連があるので、併せて参照されることをお勧めする。【解題】松岡弘之・足代健二郎 

<編纂所だより>第29号 2007.7発行

取り扱い書店
旭屋書店ジュンク堂書店ユーゴー書店・四天王寺書林、および大阪歴史博物館