祭神「一座」の語釈 

 先日来、神友(神社をこよなく愛する仲間)のsetoh@神奈備さんから3通のメールを頂いた。それは私が大阪日日新聞のコラムに書いた『靖国−「分祀」と「分遷」』
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/2006/04/miotukusi060425.html
に対する、各地の神職の方々のご意見の転送メールである。(当ブログのコメント欄とは別。それ以後)

 A氏は近畿地方・旧官幣中社禰宜で元蘘國神社の主典さん
 B氏は関東地方・旧官幣中社世襲神職のかた
 C氏は靖国神社の現職の禰宜さん
とのことである。
 A氏とC氏は卑見に対して攻撃的、B氏は卑見に対して好意的なご意見のように拝見した。

 私は昨日のこのブログでも書いたように、基本的には、多様な意見はあって当然と思っている。不毛な論争などしたくはない。しかし、短文とはいえ、まじめな気持ちで書いた私の意見に対して”愚論”呼ばわりをされてこのまま黙っていたのでは、私が非を認めたことになり、これは非常に困る。それ位なら初めから新聞にものなど書かなかった方がはるかにまし、ということになろう。


 そもそも、靖国問題の論点は多岐にわたる。
 その多岐にわたる問題全般を、論じ出したら果てしない論議になることは目に見えている。私はそんな論争に首を突っ込む立場でもないし、そんな暇もない。
 ”いわゆる「A級戦犯」が事実として犯罪者であるのかどうか”とか”中韓の非難が正当か不当か”とか”首相の靖国参拝が妥当かどうか”とか、それらのことはもちろん大事な論点でないとは言わないが、これは甲論乙駁、正しい判定を下すことのできるジャッジなどどこにもいない案件である。(当面の対処の仕方としては、政府が総合的に適切に判断する以外にないと思う)
 これについて断定的に声高にものを言う人は、自分だけが賢いと自惚れている人であろう。


 私が前記の拙文で論じたかったのは唯一点、複数の祭神を別々に分け遷す(分遷する)ことは、靖国神社が主張しているように、本当に不可能なのか?という点である。

 これについて私は『続日本紀』大宝二年の「分遷」の記事を以てその実例とした。


文武天皇 大宝二年二月己未(二十二日)
是日分遷、伊太祁曽、大屋都比売、都麻都比売 三神社
(この日、伊太祁曽、大屋都比売、都麻都比売の三神社を分け遷す)


という記事である。つまり私の解釈は、本来一社に祀られていたこの三神(兄・妹とされる)を三社として分け遷した、つまり分割した、というものである。(一般にそのように理解されているように思う)
 この点について、A氏はその解釈は誤りである、なぜならこの時分け遷したとされる三社にはそれぞれ三神が祀られているので、つまり三神を祀る分社を二社作っただけだ、とおっしゃる。(平斎云、都麻都比売神社に関しては、三神を祀っているというご指摘は事実に反しているようだ)
 
 この記事の解釈論をタラタラとやるのもレベルが低すぎて余り気が進まない。幸いなことにA氏の論に対するB氏のお説をメールで頂戴しているので、ここに抜粋させて頂き、判断は読者にお任せすることにしたい。(太字がB氏のご意見)

> > >端的に結論から申しますと、続日本紀の記述を例証として取上げていますが、全く適切と考えられません。

> > 字面の検証では「分遷」は面白い。同時期の「分遷」の使用例次第だが。
> >
> > >『続日本紀文武天皇大宝二年二月己未条は、当伊太祁曽神社に関する初見記事です。
> >
> > 異議なし。
> >
> > >伊太祁曽神社は、五十猛命、大屋都比賣命、都麻津比賣命の三神を主祭神として祀っています。
> >
> > むむ、一座じゃないのか?いつから増えた。
> >
> > >しかしながら、現在伊太祁曽神社ではこの3神を祀っております。
> >
> > だからいつから?
> >
> > >また、この「分遷」によって創建されたと考えられる、上記神社でも、残りの2神を配祀しております。
> >
> > 配祀は一ランク下でしょうな。
> >
> > >「分遷」した結果、3神を祀る神社が増えたということになります。
> >
> > う〜ん、他の分遷にそういう勧請のような意味があれば納得するがなあ。
> >
> > >また、伊太祁曽神社は、本殿に五十猛命を、両脇殿に大屋都比賣命・都麻津比賣命をそれぞれ祀っております。即ち、祭神は3座です。
> >
> > 主祭神は1座で配祀が2座じゃないのか?。配祀なら普通は座数にいれないはず。
> >
> > >文武天皇の時に、伊太祁曽・大屋津比賣・都麻津比賣の3神が1座から「分遷」したのであれば、靖国神社の場合も「可能」ということもできましょうが、3座を分遷したのですから、全くもって状況が異なるといわざるを得ません。
> >
> > 座は延喜式あたりからしか存在しないだろうが。
> >
> > >以上のことから鑑みるに、大宝二年の伊太祁曽神社「分遷」記事は、靖国神社より「昭和殉難者だけを取り分ける主旨」の祭神分祀論には何の意味もないということです。
> >
> > いや、そういう前例があるという意味はある。
そもそも、合祀したのが分けられないというのは少し無理がありましょう。戦時の間違いで合祀した例が全くないはずがない。戦後に確認しながら 合祀しているというものの存命なのに間違い合祀みたいなものが全くないといいきれるものか?


 B氏は、別に私の肩を持ってやろうとのお気持ちではないだろう。しかし、その悠々とした受け答えは大人(たいじん)の風格とともに、私には誠に心強く有難く感じられた。なお、ここに無断引用させて頂いたことを何卒お許し願いたい。

※平斎云。戦前、官幣中社としての伊太祁曽神社の「座数」は一座である。A氏は三座とおっしゃる。では、その証拠となる文献を示して頂きたい。


 この続き(「座数」の語釈)はまたあした書く。