「神の国」と「神々の国」 

heisai2006-06-17


 神友(神社をこよなく愛する仲間)の「setoh@神奈備」氏からコメントが入った。
拙稿『靖国 「分祀」と「分遷」』をなんと全国各地の600人もの神職の方々に向けて配信してくれたそうだ。(友情に感謝‼)
 そして二人の方からの反論を、このブログ宛に送ってくれた。(実は6/6と6/9の両日。閲覧の便宜上[カテゴリーの異なる日に入っていると紛らわしいので]、きょうのコメント欄に移動させて頂いた。6/13記)
 その二通の反論は残念ながら、私にとっては満足のゆくものではなかった。しかし、人々の”意見”というものは大体そうしたものであって、私如きの”一つの意見”が多くの人々にすんなり受け入れて貰えるなどという不遜な考えは最初から持ってはいなかった。


 ちょっと話が逸れるが、以前、森総理の「神の国」発言が世間を騒がせたことがあった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%9B%BD%E7%99%BA%E8%A8%80
 この程度の発言が政治的大問題になるということ自体は誠にヘン(異常)な事態であるが、私は少々興味深く感じる点があった。
 それは、「神の国」というと何となく”神懸かり思想”を持っているかような印象を与える。これをもし「神々の国」と表現していたらどうであったろう。「神々の国 出雲」「神々の国 紀州」なんて観光パンフに書いてあったとしても多分、人々は”あぁそうか”とごく自然に受け止めるはずだ。言葉尻を捉えてインネンをつけようとする連中はどうしたってつけてくるとしても、「神」と「神々」では大分印象が違ったのではないだろうか?・・・というのがその時の私の感想であった。
 「神」と「神々」、この二つの語句の印象が違うのは理由のないことではない(だろう)。
日本の八百萬(やおよろず)の神々は西洋の一神教におけるGodのような絶対者ではない。女の神様のヌードダンスを観賞して大喜びするような民衆的・民主的な神々である。


 人は一人一人顔が違うように、それぞれ考え方も違う(これぞまさに、やおよろずの神々)。ただ、この世の中で厄介なのは”何が何でもゼッタイ反対”というような、物事を一側面からしか見ない、一つのイデオロギーに凝り固まった人たちの存在ではなかろうか。(例えば 極右・極左・「死刑制度絶対反対」論者etc.)


 なお、余談にわたるが、森総理はこの発言を撤回はしなかったものの、一応陳謝の意を表した。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/syakumeiyousi-kaminokuni.htm
これが今の小泉さんだったら、フシギそうに首をかしげて「分かりませんねぇ。なぜこの発言が問題になるのかサッパリ分かりません」と言って押し通すのでは・・・という気がする。(小泉サンのこういう点は中々おもしろい)


 「靖国」の問題については、以前に書いた拙稿は言葉足らずの点もあったと思うので、追々このブログで説明を加えて行きたいと思っている。

※挿絵は「古事記のものがたり」http://www5c.biglobe.ne.jp/%7Eizanami/index.htmlから転載。
 (天の岩屋の前でセミ・ヌードで踊る「あめのうずめの命」)