文世光(ムン・セグァン)のいた町

heisai2006-09-09


 昨年、ある人から「面白いから読んでみたら」と言って、梁石日『死は炎のごとく』(2001.1.1・毎日新聞社→2003.12.5『夏の炎』と改題・幻冬舎文庫)を貸して頂いた。しかし、結構分厚い本なので、その時はさほど身を入れて読もうという気分にならず、申し訳程度に拾い読みだけして早々に返却した。
 だが最近、別のある人の影響もあって、再度読み返すことになった。そして並行してウェブ上の記事をも参照して、この小説のモデルとなった”文世光事件”(1974・昭和49年8月15日。大韓民国の朴正煕大領狙撃事件)の概要を把握することに努めた。
<小説のキャッチコピー>
”大統領の屍におれの名前を刻み込んでやる!
1974年夏。23歳のテロリストは大統領を標的に、韓国、北朝鮮、日本、アメリカの政治謀略が渦巻く闇の底へと疾走していく。テロリスト宋義哲の愛と魂は救われるのか?”

<本文のメモ>
・「1973年8月8日、驚くべき事件が起こった。東京九段にあるSホテルから日本に滞在していた金大中が何者かに拉致されたのである。」
・「本名 宋義哲。1951年10月3日、大阪市生野区中川町で生まれる。父は宋白旭、母は金春河。二人とも釜山出身。1939年から大阪生野に在住。父親は8年前に死亡(平斎注―1965年頃か)。兄弟は二人。四歳年上の兄、宋真哲は生野区大池橋で母と飲食店を経営」(平斎注―1973年、韓連大阪支部から、この危険人物に関する東京本部への報告。なお、[宋義哲]などの人名はすべてフィクションである)


 上記はあくまでも小説なので、事実の通りでないことはもちろんである。しかし生年月日などはもしかしたらモデル・文世光のものである可能性もある。『朝鮮日報』では「文世光は1951年、大阪東住吉区石綿製品製造業を営む家の三男に生まれた。本籍は慶尚南道・チンヤン」とあるので大分違うが生年だけは一致している。『朝鮮日報』の記述通りだとすれば生野区へは何時頃移転してきたのだろう?。

 私が所持している生野区の住宅地図数種類によって該当個所の住人の氏名を一覧してみると、
①1964・昭和39年12月→金田*子
1973・昭和48年2月頃→
1973・昭和48年2月→文世光【掲載図】
④1977・昭和52年7月→文世光
⑤1978・昭和53年10月→*川
⑥1983・昭和58年5月→*川
⑦1986・昭和61年8月→*川
⑧1998・平成10年→*村
 
※ ①については、あかの他人なのか、或いは母親の名前なのか定かではない。
  ④の時点では、文世光は既に刑死(1974.12.20)しているが、その遺家族がまだ居住していたのだろうか?。
※ 小説では「大阪市生野区中川町で生まれる」となっているが、これは掲載図の場所を想定したものかどうかは分からない。(昭和48年2月1日の住居表示施行以後、「・・町」という町名は廃止され、現在は中川西・中川・中川東などとなっている。旧・中川町は現・中川の一部に該当し、掲載図の場所は旧・猪飼野東3丁目に当る。事件は住居表示施行以後なので、厳密に言えば・・町という地名はない訳である)
※ 文世光に協力した女友達(高校時代の同級生)の名を小説では「門脇律子」、『大阪韓国人百年史』には「吉井美喜子(※美恵子と誤記)が夫・吉井行雄泉大津市に住む日本人)の戸籍謄本を利用して旅券を申請し・・・」などと記述し、『朝鮮日報』では「日本側はこの女性に対し、単純にパスポート管理法違反などの疑いだけを適用、懲役3年に執行猶予1年を宣告した」と述べている。
※ 「金日成主義者・吉井行雄にオルグされ、よど号事件メンバーと結婚した元スナック経営者・八尾恵は、有本恵子さんを拉致した」と書かれたサイトもある。闇の世界に没入する、こんな”志士気取り”の人間たちが、一体どのような原因から生まれて来るのだろうか?。
 
・ ウィキペディア「文世光事件」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E4%B8%96%E5%85%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
・ 朝鮮日報2005.1.20【文世光事件】30年ぶり文書で蘇った「悲劇の銃声」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/01/20/20050120000062.html
・ 朝鮮日報2005.1.20【文世光事件】犯人の文世光と共犯ら
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/01/20/20050120000066.html