播磨風土記の「猪飼野」考(続々々々々)

[猪飼野]播磨風土記の「猪飼野」考(続々々々々)

(↑『播磨国風土記天理大学図書館蔵・小野市史史料編Ⅰより転載。中央―山田里・猪養野)
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 播磨風土記の記述の中で、「山田の里」と「猪養野(猪飼野)」との関係がそもそもよく分からなかった。
 先月現地を探訪して以来、あれこれと考えを廻らせていた。現地の地理に疎いことが理解を困難にしてきた原因の第一であるのは言うまでもない。
 しかし、この約1ヵ月の間、小野市役所と好古館から頂いた資料や、『住吉大社神代記』その他色々な文献を繙読するうちに、漸く自分としての結論らしきものが見えてきた。(無論、これが客観的に妥当なものであるかどうかは私の責任の範囲外である)

 
 播磨風土記の書き方では、「山田の里」と「猪養野(猪飼野)」とはイコールのようでもあり、そうでないようでもある。(図版参照)
 従来の解釈では
 (A)「山田の里」=小野市山田町あたり
 (B)「猪養野(猪飼野)」=草加野(草荷野)=大開町あたり
というのであるから、(A)と(B)とはどうやら完全なイコールではないようだ。
 しかし、大開町は山田町を含む5ヵ町(小野市山田町・栄町・日吉町・長尾町・万勝寺町)の各一部から成り立っているのであるから、一部重なり合っている、と言える。

 『小野市史』第3巻? P315「草加野開拓」の項に、
 「草加野は小野市の東南部、東西約一・五キロ 南北約三キロにわたる海抜一五〇メートルの広茫たる一帯の台地の総称である。古来この地域の開発がたびたび企てられ、一部は先人により開墾されたこともあるが、用水不足のため挫折し久しく荒野のままに放置されてきた。」
 それに続く説明は『角川日本地名大辞典』「大開町」の項http://d.hatena.ne.jp/heisai/20070912の通り(『角川』は『小野市史』から要点を採っている)である。

 上記の説明文などから判断すると、結局次のようなことになりそうだ。

(↑『住吉大社神代記』其研究・田中卓著作集7より転載。「播磨国賀茂郡椅鹿山領地田畑」部分)
1. 日向(ひむか)の肥人(くまびと)朝戸(あさべ)の君の一族が朝廷から許されて猪を飼うために入植した地は、山田川に沿った現・小野市山田町付近であろう。
2. 九州地方からこの地に入るには瀬戸内海を東進し、加古川を遡り、さらにその支流である山田川を遡って現・山田町船付に到着したかも知れない。
3. この地への入植が許可されるについては、船木氏もしくは津守氏の周旋や承諾があったに違いない。
4. 従って朝戸の君の一族は、船木氏もしくは津守氏の支配下に置かれることになったであろう。
5. 山田町船付に近い「字 橋形」に鎮座した住吉神社は、本来のこの土地の支配者であった船木氏もしくは津守氏が奉斎したものであろう。この神社は後に市場村喜多島(北島とも書く。現・小野市大島町)を経て小野村垂井(現・小野市垂井町)に遷座したという。その年代は市史の記述からははっきりしないが、中世または近世になってからのことではないだろうか。もしそうだとすれば当社が官社に列した(=延喜式神名帳に登録された)時代には、この「山田の里」に鎮座していたのであろう。
 牽強付会ではあるが、私は「橋形」の字名を「椅鹿田」(はしかだ→はしがた)と解釈する。
(※もっとも、式内社たる「播磨国賀茂郡八座のうちの住吉神社」が当社であるとしての話である。論社が他に二社ある。私の立場としては自説の都合上、当然、山田の住吉神社をエコ贔屓する)
6. 山田の里に入植した民の生業は農業や狩猟等であって、決して猪を飼うことではなかったようだ。
 『猪甘部考』(http://d.hatena.ne.jp/heisai/20070902を参照)によると、
 「猪甘部の民も、また田を耕し、山野河海に狩猟・漁撈して食糧を自給していたのであって、これを後世の牧畜業者と同様に考えてはならない。その部民が猪甘部と名づけられたのは、その朝廷に輸すエダチが猪を飼うことであり、朝廷に輸すミツギがその飼える猪の肉を進ることであったに過ぎない。」
7. 前項の点から考えると、山田の里の民は生業としては、山田川沿いの田畑を耕し(あるいは狩猟もしたかも知れないが)ながら、朝廷への貢ぎ物としての猪(ゐのこ)のためには草加野の原野に柵などを設けて放牧していたのではなかろうか。


 以上が私の拙ない考察の要点である。
 何分、小野市地域の地理また歴史全般に不勉強のため、考え違いのあることを恐れる。ぜひ識者のご教示をお願いしたい。             (一応本考完結)