「大阪阿部野橋駅」と③庚申口、⑥庚申口東、⑤松崎口・サンクンガーデン庚申街道歴碑

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庚申街道歴碑(昭和六十三年、庚申街道を守る会)

大阪府誌(明治三十六年刊)によれば、この道路には

一貫した道路名はないが、明治三十二年頃に「庚申街道」

の名称が成立するまでは、「葛井寺道」など様々な名称

を持っていたといわれ庚申堂参りの道でもあった。その

代表的な経路は、起点を四天王寺南大門から南へ庚申

堂前を過ぎ、現JR天王寺駅近鉄阿部野橋駅を横断し

て終点の現平野区長吉川辺町で古市街道と合流して終わっ

ていた。現在「庚申街道」の名称が生きているのは、途

中の桃ヶ池当たりまでのもので、それ以降は、区画整理

事業、道路拡幅などもあって時の移り変りとともに

「庚申街道」と称したという記憶をもつ人も少なくなっ

てきたようである。

昭和五十二年、大阪都市計画事業近鉄南大阪線連続立

体交差事業により、踏み切りでの交通事故や交通渋滞と

いった交通問題を解決することを目的として、新しく都

市計画道路阿倍野松崎線が設けられ、踏み切り道は廃止

された。また庚申街道は、東地下駅コンコース広場とし

て生まれ変り、南北連絡の地下通路として線路をまたぐ

南と北の両地域を結ぶことになった。

一方、大阪市近畿日本鉄道株式会社・庚申街道を守る

会など関係者の間で地域将来の発展のための改良計画に

ついて協議が重ねられた。

その結果、緑豊かなサンクンガーデンの松崎口・阿部野

橋駅東地下鉄・庚申口が設けられ、JR・地下鉄との乗

り換え・連絡が便利になり、この界隈も大きく変貌を見

せた。

ここにこの地域の変遷を偲ぶ縁として、多大の努力を

傾けられた関係者共々歴碑として残すこととなった。

昭和六十三年十一月吉日

庚申街道を守る会

菊池正雄

鈴木幸枝

竹中光二

宮崎隆三

柳本榮一

吉野重光

(五十音順)