六万寺町【桜井の井戸】

[東大阪]六万寺町【桜井の井戸】

↓「河内郷土研究会々報 昭和三十三年六月号」より

<桜井の井戸>
桜井の地名の起因となった井戸で、縦六尺五寸、横五尺、深さ約一丈あり、今は石の蓋をして雑草で被われているが、水は西側の小池に注ぎ、昔から旱天でも涸れる事がない。河内名所図会にも清泉甘味と載せる如く水質は清浄で、昔時は傍らに桜の木があったらしく文安年間(1444〜)関白藤原房嗣がこの井戸を見て次の和歌を詠んだ事は名高い。
   汲めば散る汲まねば底に影やどす花の香を汲む桜井の水
 ちなみに、この桜樹は梶無神社の宮司川上氏の祖先聖武天皇のお伴をして吉野の小野へ狩りをした時に、吉野山より持ち帰って植えたと云われている。
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↓『縄手の歴史散歩』(縄手農協50周年記念誌『我が街わが農協』抜刷・荻田昭次著・1985年)294頁に下記の記述がある。
<桜井のあと>
 旧六万寺村は上六万寺・六万寺・下六万寺の三つの集落よりなる。現在は上六万寺町・六万寺町・下六万寺町となっている。
 明治十五年の『六万寺村誌』によると字地として上六万寺・桜井・下六万寺となっており、六万寺は古くから桜井とか桜井邑といわれた。それはこの地に桜井という井戸があったことにもとづいている。
 その井戸は六万寺町一丁目の杉原増次郎氏のお話によると、稲岡清秀氏宅のすぐ西側の地にあったとおっしゃっておられる。今は撤去されて宅地になり残っていない。
 昭和35年枚岡市報』によると、「縦六尺五寸、横五尺、深さ約一丈の井戸であるが、今は石の蓋をして雑草が被っている。水は西側の小池に注ぎ、昔から旱天でも涸れる事がない」と記している。したがってこの井戸は単なる井戸ではなく、地下より湧出する清泉であったことがわかる。

<平斎注>昭和35年枚岡市報』の記述は同33年『河内郷土研究会々報』の孫引きであろう。また、井戸の大きさは、大正11年大阪府全志』に「桜井は字桜井の田圃の間にあり、縦六尺五寸、横五尺、深さ壹丈にして、水質清冷、旱天にも涸るヽことなく・・・」に拠っている。
ただ、「石の蓋をして雑草で被われているが、西側の小池に注ぎ・・・」および「桜樹の由来」の部分は『河内郷土研究会々報』のオリジナルであり、独自の貴重な証言ではないかと思われる。
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↓ 郷土史 六萬寺』 (六万寺郷土研究会編・平成十七年(2005年)・執筆:川上明雄ほか)画像提供:勝田邦夫氏

 

↑「井戸は六万寺(「一丁目」を脱す)七の二三、池堂弘宅の北側東寄りにあった。宅地化される前は六万寺町一丁目・西口誠一所有の土地、梅や桐の樹が植樹された畑地で、西側には南北に細長い小池があった。(『郷土史 六萬寺』)

<平斎注>上記『郷土史 六萬寺』には、「さて、井戸はどこにあったのか」と書き起こしながら、この井戸が何時頃まで存続していて何時どのようにして壊されてしまったのか―の記述が一切ない。誠に不可解な記録である。
 地名の起源ともなったこの名泉が一体、いかなる理由で何ぴとの手によって廃絶に帰してしまったのか?
 それを何とかやめさせることはできなかったのか?――そこが、私の最も気になる点である


↓[歴史]桜井の井戸(続)
http://d.hatena.ne.jp/heisai/20170520