続・山科論文への素朴な疑問

[歴史]続・山科論文への素朴な疑問

 拙文は、市井の古代史研究家であるY氏の畢生の力作、日本書紀古事記 編纂関係者に抹消された 邪馬台国に対する読書メモである。
このY氏の著書の論旨は、筆者(平斎)の理解によれば以下の通りとなる。

記紀には、邪馬台国に関する記述が一切ない。それは、中国に膝を屈して臣従したヒミコの存在は、記紀の編纂者であるヤマト王権にとっては極めて不都合であって、その事実を隠蔽するために、邪馬台国に関する記録を徹底的に抹消したからである。←P54

ヤマト王権にとってヒミコの存在が不都合である理由は、下記A・Bである。
  .国家意識高揚期にあったヤマト王権の立場上、中国への朝貢記事などは国家の体面(コケン)に関わる。←P43、P49
  天照大御神の神勅により、大御神の子孫たる天皇がこの国を統治する、という国体思想の原理に基づく神話体系に矛盾する。←P43、P49

.神功紀に『魏志倭人伝』の記事が注記の形で引用されているので、記紀の編纂関係者が邪馬台国のことを熟知していたことは、明らかである。←P21〜22

.女王朝貢魏志の記事を、神功紀の本文としてではなく、傍注という形でさりげなく挿入しているのは、「倭の女王=神功皇后」説を暗に示唆するためである。←P56〜60

邪馬台国の位置が北九州であることについては、『魏志倭人伝』の記述の材料とされた『魏略』の逸文である『広志』に、「伊都国のすぐ南」、同じく『翰苑』に、「伊都国に比較的近い場所」と記されていることによって、明らかである。←P89、169

邪馬台国卑弥呼の死後、女王となった台与の時代(AD266、晋に遣使の記録あり)に纏向に遷都した。出雲・吉備の両国が台与の要請に応じて遷都に協力した。纏向遺跡の出土品によって両地方の影響が顕著に窺える。←P144〜、155〜、

.台与の晋への遣使(AD266)は、纏向への遷都後のことと思われる。←P170

陳寿はAD280年代に『三国志』を撰述したとされている。邪馬台国の位置について、遷都前と遷都後の二つの情報が混同されたことが、魏志の方位里程記事のうち、伊都国以降の部分が曖昧になった理由であろう。←P170

.台与の纏向政権がのちのヤマト王権に発展した。崇神天皇は台与の何代目かの子孫であろう。←P49(3〜4行目)、P151

10.  記紀邪馬台国の記述がないということが、邪馬台国ヤマト王権の前身であることを逆説的に証明している。←P49


※(上記の10項目は、序章(=3)、第1章(=1・2・4・9・10)、第2章(=5)、第3章(=5・6・7・8・9)からの要約であって、第4章に当たる「補章」の論旨はここでは省略した。)
※<素朴な疑問>は別稿にて。