磐船神社と住吉四社明神

[神仏]磐船神社と住吉四社明神
 磐船神社の沿革について最も興味を引かれる点は、当社とこの地方一帯に分布する住吉系神社との関係である。
 先ず磐船神社の公式サイトから由緒の概略の一部分を引用させて頂く。
http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/yuisyo.html
磐船神社の御由緒』
【三】神仏習合の時代
 物部守屋公が蘇我氏との崇仏・排仏論争に破れ、物部の本宗家が滅びるとともに交野地方の物部氏の勢力も一掃されることとなります。このため当社の祭祀も衰退を余儀なくされますが、当社を総社としていた私市、星田、田原、南田原の四村の人達が共同で祭祀を行ってゆくようになりました。
 その後、生駒山系を中心とする修験道山岳仏教が盛んになると、当社もその影響を受けることとなり、修験道北峯の宿・岩船の宿としてその行場に組み込まれてゆきます。

 また、平安朝になると交野が貴族の御狩り場や桜狩りの名所となり、歌所ともなります。そして歌の神様でもあり、航海の神様でもある住吉信仰が広まり、当社も御神体天の磐船のそばの大岩に住吉四神がお祭りされるようになります。

 この理由についてはお互いに船と関係の深い事により結びついたとも、「新撰姓氏録」という典籍によると、住吉大社の神主であった津守氏が饒速日命の子孫にあたり、その関わりで物部氏滅亡以後、住吉四神が祀られたとも考えられています。(住吉大社と当社の関係は意外と深く、「住吉大社神代記」という古典には、「膽駒神南備山(いこまかんなびやま)本記 四至(中略)北限饒速日山」として、当社(=饒速日山)を、住吉大社の所領であるかあるいは住吉大神と縁の深い「生駒山」北の境界として、記していることは興味深いものがあります)

 鎌倉時代にはこの住吉の神の本地仏としてその大岩に大日如来観音菩薩勢至菩薩地蔵菩薩の四石仏が彫られ、四社明神として知られています。その後四社明神の祀られた大岩の前に御殿が建てられ、現存はしていませんがその屋根や柱を立てた穴らしい跡が岩に残っています。

 また境内の大岩には不動明王が彫られ、「天文十四(1545)年十二月吉日」の銘が彫られ、神仏習合の色合はますます強まりました。

【四】近世以降
 近世に入ると当社は先の四村の宮座による共同の祭祀が定着して行なわれていましたが、度重なる天野川の氾濫による社殿、宝物などの流失が続き、神社の運営は困難を極めました。

 そして江戸時代宝永年間(1704〜7年)に四村宮座の争いから、各村御神霊をそれぞれ神輿にのせて持ち帰り、それぞれの村に新たに社殿を設け氏神として祀りました。このため当社は荒廃を余儀なくされます。

 しかしその後も村人たちの努力により饒速日命降臨の地としての伝承は守られ、明治維新後多数の崇敬者の尽力により復興されました。また日本中に吹き荒れた排仏毀釈運動の影響もなく神社境内の仏像も無事保護され、神仏習合をそのまま今に残しております。

【平斎云】上記四ヶ村に分遷した四つの神社は何神社であろうか。
A私市  若宮神社
B星田  星田神社
C上田原 住吉神社
D南田原 住吉神社(お松の宮)
の4社であろうと推測される。

※A・私市(1587石)の若宮神社○「私市には天田の宮があるのに、さらに若宮神社(平斎注:祭神はともに住吉四神)があり、一村に二社となっているのは、どうしたことだろう。・・・江戸時代宝永年間、私市、星田、田原、南田原がその総社としていた磐船明神で、大和と河内の間に宮座の争いが起こって解決せず、とうとう別れ話となって、村々は磐船明神の分霊を神輿に乗せて持ち帰り、それぞれの村にこれ見よがしの立派な社を建てて住吉神を祀った。
 私市では、以前から天田の宮があるのだが、さらに田原から来る人によく見えるようにと、村の入り口に鳥居を立ててこの宮を祀り、天田の宮に対してこちらを若宮とした」(『交野町史改訂増補』「私市の社寺」)


※B・星田(1530石)の星田神社 ○祭神は住吉四社明神、境内は1782坪。例祭は十月七日、昔は陰暦九月十五日であった。
 ○星田の中心集落は北村・艮村・東村・坤村・西村・乾村の6つの小字で形成されている。氏神の星田神社はその南側(小字”向井”の中に南村・巽村がある)の南村に鎮座する(『全志』)。
 ○「本社の住吉四社明神は、宝永年間に岩船より移されたものである。岩船さんは古い時代から天野川沿岸の村々の総社であったが、江戸初期の頃には田原・南田原・星田・私市の4ヶ村の郷社のようになっていた。
 そして、毎年のように宮座のことや神主職を自分の村方より出そうとすることが原因となって争いが絶えなかったので、星田の平井源左衛門という人が岩船の神主であったとき、話合いの上、各村が分離して奉祀することになり、そのとき岩船より遷されたものであると伝えられている」(『星田懐古誌・下』「神社と寺院」P40)
 ○「以来、昔からの交野大明神は塀の外、北側に末社の形でお祀りし、新しい祭神と区別するために、村人は古宮と呼ぶようになった」「古宮の祭神として「進雄命、大雀命」の神名が古い御幣にしるされていたが、昭和58年、拝殿再建・末社の整備を機に、古来より交野物部氏がその祖神と仰いだ饒速日尊を祭祀してきたという神社の記録が存在するところから、饒速日尊・すさのおの命・仁徳天皇の三柱を祭神として更めて祀ることになった」(『星田歴史風土記』P86)


※C・上田原の住吉神社 ○上田原(273石)は下田原(325石)とともに河内国讃良郡(現・四条畷市)。上田原の住吉神社は上・下田原の氏神である。
 大和国の田原とは天の川を境界とし、もとは河内側のエリアを”西田原村”と称したが慶安4(1651)年、上・下の両村に分かれた。
 ○「住吉神社は大字上田原・字宮にあり、表筒男命中筒男命底筒男命・息長帯姫尊および菅原道真を祀れり。伝えいふ、社は磐船村大字私市の岩船神社より分祀したるものなりと。今も同社より持ち来たれりといへる神輿二基・湯釜一個を存し、湯釜には文禄五年八月五日河州田原西荘岩船云々とあり。
 もと字土井の内にありしが、明治五年当社および下田原村の菅原神社(菅原道真)を併せて当所に祀り村社に列せらる。境内は四百四十三坪にして、本殿の外に拝殿・土蔵等を存し、末社水分神社・熊野社・八幡社あり。氏地は本地および下田原にして、祭日は十月十六日なり」(『大阪府全志』)
 ○「当社は交野市私市の磐船神社より分祀されたと伝えられ、田原城跡に鎮座するも後日これを遷座し、上・下田原村の氏神として祀った。明治五年下田原鎮座の菅原神社も合祀した。
 現在住吉神社の建立記録は存在しないが、江戸中期で、元禄期までは存在しなかったと考えられる」(『北河内のお宮』昭和56年・北河内瑞穂会)
【平斎注:上掲書の”元禄以降創建説”の根拠は、「元禄二年(1989)の南遊紀行で、精細に探訪地を手記する貝原益軒が、住吉神社を取材しないことから見て、元禄年期までは、当社は存在しなかったのではあるまいか」という『四条畷市史』(第一巻・P971)の推測に基づいている。
 星田村が唱える説では、元禄(1688〜1704年)に続く宝永年間(1704〜1711)に各社が分祀したとなっているので、その点もこの説を補強していると言えるだろう。
 実は上田原には、八ノ坪(=城山)という所に住吉神社がもう一社存在するが、これについては、後日述べることにする。

※D・南田原の住吉神社 ○南田原(691石)は北田原(649石)とともに大和国添下郡(=現・生駒市)。南田原の住吉神社は南・北田原の氏神である。
 ○神社の東北東七百米の桧窪山山麓・岩倉寺縁起に「弘法大師この寺を離るる二町(平斎注:五町の誤りか?)ばかりの地に龍の形の池を掘り龍ヶ池とし高林に星ヶ森と名付け住吉明神垂迹の聖地とす・・・またこの池水こんこんと湧き出で枯るることなし云々」
 この龍ヶ渕は天の川の源である。
 磐船神社の神宝は祭祀する者久しく絶えているうちに分散し、神社の松の枝を持ち帰り星ヶ森に植樹され、住吉神社の境内は松の木鬱蒼と生え繁っていた。これによりおまつの宮と伝承された。(『生駒市誌資料編Ⅲ』)
 ○『五畿内志』「大和志 添下郡」【式外】には同神社を
  「巖船神祠」
  南田原村に在り。旧事記に曰、饒速日尊 天神御祖の詔をうけて天磐船に乗りて河内国河上哮峯に天降り坐す即此。


 さて、それらの根元社たる岩船神社について『全志』には、
「・・・粠石悉く変幻を極め、一大巌天の川に跨がれり。いわゆる磐船是れにして高さ六丈・長さ五丈、其の形船の如し。
 即ち岩船神社の神躰にして、表筒男命中筒男命底筒男命息長帯姫命を祀る。境内は125坪、無格社にして祭日六月三十日なり。
 伝へいふ、饒速日尊の天津御祖の詔をうけて、十種の神宝を授かり、哮峯に降り給ひし時に用ひられし天磐船なりと。」と記す。