青十字会館の沿革

[猪飼野]鶴橋青十字会館の沿革
S 9.9.  鶴橋警察署が東成区勝山通8-40-10(大阪府立農学校跡)に庁舎を新築して移転ののち、土地台帳によれば、

鶴橋北之町二丁目(鶴橋町大字木野字樋ノ前)130-2
●S10.4.10 所移 中河内郡八尾町大字今井三七 中村三徳

●S27.7.22 寄付 鶴橋北之町二丁目一三一
        社会福祉法人 大阪盲人会
となっている。

【中村三徳】については、
『大阪自彊館と中村三徳』「市民活動情報誌『Volo(ウォロ)』2004年6月号(通巻396号)-まちを歩けば」(編集委員 小笠原慶彰)http://www.osakavol.org/volo/volo2004/volo3967.html
によれば、

中村三徳は、一八七三(明治六)年、備前岡山の池田家旧家臣の家に生まれた。維新後父準平は旧主岡山池田家の執事のような仕事と私塾経営によって一家の生活を支えていたが、一八八二(明治十五)年に京都で客死する。そのため一家は窮迫し、三徳は苦学した後に大阪の商家奉公を経て二十四歳で大阪府巡査となった。 

 一九一一(明治四十四)年、大阪府警察部保安課長となっていた三徳は、釜ヶ崎の地に内務省調査団の一行を案内した。池上四郎府警察部長(後市長)や司法省を退き内務省に転じていた小河滋次郎(後府社会課長)も同行していた。釜ヶ崎の惨状はききしにまさるものであった。当時の「貧民窟」の状況については、鈴木梅四郎『大阪名護町貧民窟視察記』(一八八八年)をはじめとして、横山源之助、松原岩五郎など明治のライターによるルポによって報告されている。しかし、それよりも木賃宿を有料ダンボールハウスとイメージする方が実感できよう。いずれにしても人間が生きていける最低条件下での暮らしがそこにはあった。数日後、池上は三徳に釜ヶ崎でも人間らしい生活のできる宿泊所を作るよう命じた。
一九一二(明治四十五)年六月二十五日、三徳命名の【私立大阪自彊館】が開館し、翌年には財団法人として認可された。

 この頃の警察は、社会事業もその守備範囲としていた。一九一三(大正二)年に大阪市長となって社会事業行政を推進し、市に社会部を創設した池上警察部長のもとで、「警察三羽烏」と謳われ、社会事業に熱意を持った三人の警察官がいた。その一人が三徳である。
 三徳は、府警察部衛生課長、難波警察署長などを務めながら【私立大阪自彊館】運営に尽力していたが、一九一八(大正七)年に妻を喪ったこともあって、警察を辞し、中河内郡長となった。時に四十五歳。この郡長時代、後に館運営の中心(主事)となる吉村敏男と出会う。
 一九二一(大正十)年には、大阪毎日新聞社長本山彦一に請われて大毎慈善団主事となった。
 一九三四(昭和九)年に三徳は慈善団を退職した。翌年自宅敷地内で創設した大毎記念中村塾はその後八尾隣保館として、また自彊館も吉村敏男の下で戦前・戦中の苦難を乗り越え、ともに大きく発展していった。この間も二人の協力関係は絶えることなく続いた。
一九六四(昭和三十九)年、三徳は九十歳の天寿を全うした。

となっている。

※一方、 『いくのわがまち通信3』(1班木村「老兵のロスタイム」)
http://www.city.osaka.lg.jp/ikuno/cmsfiles/contents/0000009/9304/wagamachitushin03.pdf
によれば、
 警察署移転後、盲人会館として使いたいと、大阪鍼灸あんま連合会が中心となって「大阪盲人会」名義で府に払い下げを申請し、認められました。払い下げ代金は5万円で、改修費は13万円余りも必要でした。一般会員に会債を発行公募したり、寄付や銀行からの融資を受けたりして資金を集めました。宮内省の協力も得て、昭和10年、警察署跡を購入しました。昭和13年に改修工事が竣工、「青十字会館」と命名されました。


とある。この記述は上記・土地台帳の記載と合わないが、土地台帳の方は多分名義だけのことであって、実態は(1班木村)氏の記述通りなのであろう。