日本書紀「太歳記事」に関するメモ
1.紀年法の沿革
A 歳星紀年法(木星の天球上の位置【十二次】で表す。十二次は星紀〜析木の12区分。「歳在星紀(歳、星紀に在り)」などと記録されている)・・・・・春秋時代
B 太歳紀年法(木星の鏡像たる太歳星の天球上の位置【十二辰】で表す。「太歳在寅」なら木星は丑の位置、「太歳在卯」なら木星は子の位置にある。・・・戦国・秦・・・顓頊(センギョク)暦
C その後(=漢代以降)、十二辰のまえに十干も使われるようになり、年が干支により記述されるようになった。
C―1.ただし、この時点での干支はまだ太歳の位置を表すものであった。
◎太初暦(BC.104【太初元年】〜AD.4【元始4年】)・・・・・(およそ前漢時代)
(BC.95【太始2年】を含んでいる)
※ 前漢の太初元年(紀元前104年)[4]の改暦(太初暦)では、超辰をおこない、
丙子を丁丑に改めた。のちに三統暦の補正では超辰は114年に一次ずれると定義し、
太初元年を再び丙子に戻し、太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌へ超辰するとした。
これによって三統暦による太歳紀年とのちの干支紀年は太始2年から見かけ上、同じになる。
注[4] この年の紀年は、『呂氏春秋』・『前漢書』賈誼伝・『前漢書』翼奉伝・
『史記』暦書では、それぞれ乙亥、丙子、丁丑、甲寅となっており、
それぞれ流派の異なる紀年が混在していた。前漢末に劉歆によって整備が始まり、
これが最終的に整理されて完全に統一されるのは後漢初期の元和2年(西暦85年)
の改暦であった。
※ 劉歆(リュウキン、? - 23年)は、中国、前漢末から新にかけての経学者、天文学者。
◎三統暦(AD.5【元始5年】〜AD.84【元和元年】)・・・・・(およそ後漢時代)
C―2.干(歳陽)支(歳陰)を組み合わせた歳名(閼逢摂堤格など)のことはここでは省略。
D 干支紀年法
後漢四分暦(元和2年・AD.85)以降、超辰法を廃止し、木星の位置に関係なく順次機械的に干支を進める。後漢四分暦→景初暦→元嘉暦→儀鳳暦→大衍暦・・・
※この元和2年(AD.85)の改暦(=超辰法の廃止)は中国官暦の最初という。
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◎ つまり、日本書紀が使用したとされる儀鳳暦・元嘉暦は超辰法が廃止されてのちの、遥か後世の干支紀年法の時代の産物である。
にもかかわらず、書紀ではその年の干支を「是年也 太歳甲寅」(神武天皇即位前7年。東征発意の年)のごとく、あたかも太歳紀年法によっているかの如き記述となっている。
◎ しかし、即位前6年=乙卯年、同3年=戊午年、同2年=己未年、同1年=庚申年、即位年=辛酉年、の都合5回についてはふつうの干支紀年的な記載法を採っている。
つまり、その年の記事の末尾に記される「太歳記事」とは違って、「乙卯年春三月」の如く、その年の記事の冒頭に干支を記している。※これは別に「太歳記事」とは言わないようだが、本質は同じことである。
◎ 日本書紀の記述による神武紀の年代は中国の春秋時代のころに位置付けられている。
◎ にもかかわらず、書紀では太歳紀年を干支で表示しているのであるから、紀年法に関しては、書紀は漢代の風(上記 A・B・CのC)になぞらえているということだろうか?。
→続きはまた後日。