足代一学(あじろ・いちがく)

[雑記]足代一学(あじろ・いちがく)

わが家祖【足代一学】が即ヒットしないので、このブログを書く。


・大坂・平野の郷学、含翠堂では、初めのころは陽明学者の三輪執斎【みわ・しっさい】の指導を受けたが、専任の教授は伊藤仁斎門下の
足代一学【あじろ・いちがく】
陽明学の篠原正旦、懐徳堂門下の早野反堂などが務めた。伊藤東涯や三宅石庵【みやけ・せきあん】、五井持軒【ごい・じけん】、のちには藤澤南岳【ふじさわ・なんがく】なども来講していて、その時々において優れた師を招いている。諸派の学説の違いにこだわることなく、基本的な生活道徳を学ぶことを目的とする民間の学塾の特色がここに見られる。
(近世大坂の学問懐徳堂とその周辺(4) 含翠堂【がんすいどう】
六稜・大阪学講座 岸田知子(78期・高野山大学教授)より 抜粋)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「一学」の名では、清水一学(俗書では「清水一角」)が有名だが、「一学」とは何だろうか?。
 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』の【東百官(あずまひゃっかん)】の項に、

 
 東百官(あずまひゃっかん)は関東地方において武士が称した官職風の人名である。但し、朝廷における官職には存在せず、あくまで朝廷の官職を模倣してつくられたものである。別名、相馬百官ともいい、平将門が新皇を称して新政権樹立を図った際に設けた官職体系であるという伝説もある。朝廷の律令官制に基づいた公卿百官に対して、関東における官職風の人名であることから、東百官武家百官ともいわれた。主に江戸時代以降称されることとなり、江戸時代の学者は、「由緒正しからず、名乗るべからず」と評しているが、武士の間では有力武家、名門の子弟までもが称した。 百官名(ひゃっかんな)同様に、名字の次、諱の前に入れて名乗った。

とあり、「主な東百官の例」として、その中に「一学」がある。
 同じくフリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』の【百官名(ひゃっかんな)の項に、

 
 百官名(ひゃっかんな)とは武士が称した官位風の人名をいう。
 室町時代以降、守護大名が被官に対して官途状を発給し受領名(国司の官名)を授与するケースが表れたが、これは朝廷の関知しない僭称であった。よって、公式な場では守護大名から与えられた官名を略したり、違う表現に置き換えたりした。また、先祖が補任された官職を子孫が継承するケースも現れるなど、朝廷の関知しない、武士が自ら官名を名乗る自官という慣習が定着していった。
 戦国時代の頃から、武士の間で官名を略したものを自分の名前として名乗る風習が生まれ、江戸時代後期までその風習が続いた。これが関東地方では東百官に発展し、こちらが武家百官と言われたのに対し、官職を元にした百官名公家百官と呼ばれた。氏や名字の次、諱の前に入れて名乗る。
 百官名の読みは正式な官名とは若干異なる読みをするので注意が必要である(例:蔵人は、官職は“くろうど”、百官名は“くらんど”)。

とあり、「主な百官名」の例として、
・大学(だいがく)←大学寮(式部省被官)
というのがあるから、「一学」は「大学」から派生したものではなかろうか?。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【足代一学】の墓は八尾にある。そのことはまた明日に書く。