【明堂】の意味

[雑記]【明堂(めいどう)】の意味

 鍼灸書の書名に『黄帝内経明堂』など、【明堂】の語句が時々目につく。ところが、その【明堂】という言葉の意味を説明したものが中々見当たらない。
 ネット上で捜していると、「はりきゅうミュージアム」というサイトの中に、やっとそれらしい説明文を見つけた。↓
http://www.morinomiya.ac.jp/museum/
 それは次のようなものである。
<明堂銅人図>
 図の名称であるが、「明堂」とは10世紀までの経絡経穴の体系を、「銅人」とは11世紀に整備し直された経絡経穴の体系を指す。ここで言う「明堂銅人」とは、新古併せた完全版の意味ででもあろうか。
17世紀に入ると、中国では『十四経発揮』系(寧波府刊)と『鍼灸大成』系(靳賢通校)、両種の経絡図が主流となる。


 【銅人】とは、北宋の仁宗皇帝(1022〜1063。11世紀)が医官・王惟一に命じて作らせた、経絡・経穴の分布を刻した銅製の人体模型の意で、これと同時に『銅人腧穴鍼灸図経』なる鍼灸書が刊行されたとのことであるから、上記「[銅人]とは11世紀に整備し直された経絡経穴の体系を指す。」というのは、確かにその通りなのであろう。
 そうすると【明堂】は、仁宗皇帝が【銅人】を作らせる以前の鍼灸医学の体系の意、と解してよさそうだ。そしてその時期の代表的鍼灸書の書名が『黄帝内経明堂』であるらしい。

 そこまでは仮によいとして、しかし、【明堂】の言葉の意味は依然として不明である。


↑写真は『目でみる漢方史料館(125)』http://www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/paper04/shiryoukan/me125.htmlより転載させていただきました。
(北京図書館蔵。日本国宝・仁和寺本の江戸期の影写本=小島宝素→多紀元堅→寺田望南→森立之ら旧蔵の手沢本)
 
 そんな時、偶々『鍼灸古典入門』(丸山敏秋著・思文閣出版・1987)というよい本が手に入った。その本に「明堂経―最古の経穴書―」の項目があり(P147〜)、そこに次のように記述されている。

 「なにゆえ経穴書の類の多くに「明堂」の名が付され、「明堂」という言葉が鍼灸に関する代名詞のごとくなったのかは、よくわからない。「明堂」とはもともと皇帝が執政の際に坐した場所ないし建物をいう(『礼記』)。・・・古代中国には鍼灸療法を専門にする医のグループが黄帝を始祖に仰いでいた。
 黄帝は「明堂」に坐して医の道を受けたり授けたりしたという伝説から、「明堂」が鍼灸あるいは経穴書の象徴的な代名詞になったとも考えられるが、いまこの点に関する穿鑿は行なわない。」


 大体納得である。
 因みに、『広辞苑』では、
めい-どう【明堂】
【第一版】・シナで、天子が政を行う殿堂。政堂。朝廷。
     ・灸点の名。
【第五版】・昔中国で、天子が政を行う殿堂。政堂。朝廷。
     ・灸点の名。額中央の髪の生え際より少し上の所。上        星。神堂。鬼堂。
となっていて、第二版以降、灸点の名の説明が付加されているものの、鍼灸医学の古典の名称である、という解説項目はない。あれば随分助かったのに―とちょっと思う。