廻国供養塔に猪飼野村民の名を発見

heisai2007-11-05

[猪飼野]廻国供養塔に猪飼野村民の名を発見
 きのう、東成区の妙法寺で行なわれた成瀬國晴氏の講演(落語の五代目笑福亭松鶴や、桂米団次などが片江・今里に住んでいた・・・等々、中味の濃いお話)を聞いた後、ついでに、先達て大今里墓地で見付けた珍しい六十六部廻国供養塔の写真を撮影しに行った。

  

●(正面)
奉   天下和順  江戸 願主 政五郎
  大 乗 妙 典 六 十 六 部 日 本 廻 國 供 養
納   日月清明  施主 深隨永勝

・その下段
 大坂天満 佐久間藤五郎|江戸 内藤嘉蔵|同 太田清八|同 同五兵衛
・その下段
 世話人  當村 吉原孫助ら(12名)|玉造 二見屋定吉ら(5名)

●(碑の裏面)文政四巳年十一月吉日(注:1821年)
●(碑の東側面)内藤氏|**信士 **信女(信女3名)
・ その下段
 玉造 観音講|水間講  音吉 林兵ヱ 音吉
●(碑の西側面)
 世  小 路 嘉右衛門
 話  梅田道 為右衛門
 人  道頓堀行者 善七 
    川邊郡 清山
・ その下段
 文政四巳年
 純教宗圓信士
 十月晦日
 梅窓清薫信士
 同十一月十日
   この両側に2名+3名(計5名の人名あり)
・ その下段
    釈尼妙周
  猪飼野
    茂兵ヱ|平右ヱ門|仁兵ヱ|善助|儀助|九兵ヱ|十右ヱ門|元右ヱ門|吉兵ヱ|弥三七|定右ヱ門|力蔵(計12名)

※ 広辞苑「六十六部」「回国巡礼」の解説文によると、
 書写した法華経を全国六六ヵ所の霊場に一部ずつ納める目的で、諸国の社寺を遍歴する行脚僧。鎌倉末期に始まる。江戸時代には俗人も行い、鼠木綿の着物を着て鉦(かね)を叩き鈴を振り、あるいは厨子を負い、家ごとに銭を乞い歩いた。六部ともいう。

となっている。
 大今里のこの供養塔の刻文を見るに、内藤氏・願主・施主・世話人観音講・水間講・行者、地名も江戸・天満・玉造・道頓堀・川邊郡・當村・猪飼野などいろいろで、一体誰が主体なのかよく分からない。
 墓守の婦人の談によると(この墓地の管理委員の一人であった故・俵谷(ひょうたに)浅雄氏からの伝聞とのこと)、
「昔、この墓地の近くで行倒れになった行者がいて、その笈(おい)の中から大金が出てきたので、そのお金でこの供養塔を建てた」
という。どこまで確かな話なのかは分からないが、それに近い事はあったのだろう。
(俵谷浅雄氏の先代は音吉と言い、上記 水間講に音吉の名があるのも少しだけ気になる )
 そうだとすると、その行者は内藤氏の人なのか、或いは、文政四巳年十月・十一月に相次いで歿したらしい純教・梅窓という二人の人物なのであろうか?。

※ 大阪の寺町に遺る巡礼供養塔については大阪城天守閣学芸員北川央氏らの調査報告が出ている。そこに挙げられた30例をみると、その形態は石碑・宝筐印塔・地蔵石仏・地蔵尊台座などであるが、寺院の無縁墓群に混入していたり破損したものも多く、この大今里の供養塔のように規模が大きく完全な形の遺物は少ないようだ。(四天王寺のものはまだ未調査とのこと)
※※ この調査報告(『大阪女子短大紀要21』「大阪寺町および周辺寺院に遺る巡礼供養塔」1996)によれば、「天下和順・日月清明」という脇銘文は無量寿経から引いたもの、という。
※※※ 廻国供養塔の別の一例を以前このブログで紹介している。↓  
http://d.hatena.ne.jp/heisai/20060824


 昨日の講演会は「大阪今里まち発見 新道(しんみち)・暗越奈良街道フォーラム」(東成区未来わがまち推進会議などが主催)の一環として行なわれた。
 暗越奈良街道の一部などのウォークでは「火袋式道標」も見学した。
 考えてみると、この街道を通ったのはお伊勢参りの人たちだけではない。日本全国を巡礼して歩く廻国行者・六十六部の人たちも勿論この街道を通ったことであろう。
 街道と併せて、この供養塔がもう少し見直されてもよいのではなかろうか?。
(* 大今里墓地はこの街道沿いにある。この石塔に玉造の講の名や多くの人名が刻まれている点も留意すべきだ)