百済野と「鶯の丘」 (続々)

[猪飼野]百済野と「鶯の丘」(続々)

 結局、
1.細工谷1丁目1・・・「是ヨリ西南 鶯の丘」
2.細工谷1丁目3・・・「是ヨリ東 鶯の丘」
3.細工谷1丁目8・・・「是ヨリ東 鶯の丘」
4.細工谷2丁目10・・・「(文字不明)鶯の丘」

これらの石碑が元々その場所から大きく移動していないかどうかも定かでないが、「鶯ヶ丘広場」や「鶯ヶ丘荘」のあった場所は、これらの4基の石碑を線で結んだエリアの真ん中に位置している。

 「鶯ヶ丘広場」自体は、道路予定地として人家が立ち退いたあと、道路となるまでの一時期のものに過ぎないが、地図にその名が記されているというのは、やはり地域でその呼び名が記憶されていた証拠であろう。「鶯ヶ丘荘」もまた然りである。

 ただ、これらの石碑が誰の手によって、いつ頃建てられたものであるのか、今のところハッキリしない。

 ただ、件の新聞記事に「桃畑やったんで、ウグイスが桃の木にやってきたんやね」と書かれているが、どうだろうか?。寡聞にして桃にウグイスは今まで聞いたことがない。
 これは単なる私の想像に過ぎないが、或る人が【百済野】を意識して【鶯の丘】の名を創案したのではなかろうか。この近くの上之宮台ハイツ(上之宮跡)の前にその神社の神官であった生田南水翁の「百済野の むかしかたりて 露の萩」の歌碑がある。

 万葉集に「百済乃芽古枝爾待春跡 居之鳴爾鶏鵡鴨」
百済野の 萩の古枝に春待つと 居りし鶯鳴きにけむかも 山部赤人) 
この百済野はなにわの百済野ではないのかも知れないが、地元贔屓の気持ちから当然有名なこの歌を人々は脳裏に浮かべたに違いない、と私は思うのだが・・・。

※ 写真:手前および右手は細工谷1丁目(「鶯の丘」か?)、左手は堂ヶ芝2丁目。極端な段差が町域を分かっている。
※ どこかこの辺りで、「大江神社」の氏子であることを示す、小さな金属板を軒下に打付けた古家を見かけた。上之宮は明治末期に大江神社に合祀されたためこの地域は大江神社の氏地になっているようだが、本来、上之宮の氏地であったに違いない。そうすると、「鶯の丘」の命名者は生田南水翁ではないか?、という推測も浮かびあがってくる。
 南水は萬延元年(1860)〜昭和九年(1934)の人。例えば明治末期は翁の五十歳頃ということになる。享年は七十四。生田花朝の父。