百済野と「鶯の丘」 (続)

[猪飼野]百済野と「鶯の丘」(続)

 今日の午前中、カメラと住宅地図(昭和62年版)のコピーを持って再度出掛けた。
 この地図には【桃陽 鶯ヶ丘広場】というのが記載されている。(この辺りは桃陽小学校の校区、すなわち桃陽連合町会に属する)
 もう一種類のこれより古い地図(発行年不詳)では、その広場に該当する部分の北半分は人家で、南半分は空地になってはいるものの、鶯ヶ丘広場の名称は記載されていない。その代わり、その空地の少し東側に【鶯ヶ丘荘】というアパートか何かの名前の記載がある。なお、鶯ヶ丘広場も鶯ヶ丘荘も現在は道路敷きになってしまっている。
 ところで、百済尼寺地蔵尊はどこからか今の場所に移してきた、ということを昨日確か熊野屋さんから聞いた気がする。そのことも少々気になっていたので、地蔵さんの近所のお家に飛び込んでお尋ねした。その家の人の話によると、今のお堂から現在の歩道部分(もともと細道)を挟んで南東向かい側に、北向きに建っていた。その場所が道路敷きに掛かったため歩道の北側に移動した、とのことであった。
 予期せぬことだったが、何とそのお家の生け垣の隅にもう一本の【鶯の丘】碑があることを教えられびっくりした。(写真↓)

 それから、昨日見た【鶯の丘】碑の写真を撮りに向かった。丁度その近所のお家の方から話を聞くことができた。ちょっと竹下景子さんを思わせるような、気さくな感じの人だった。その人の話によると、この下の(南側の)道路に面したMという保険屋さんの家の前にもう一基、これと同じような石碑があるはずだという。その話にも驚いた。(写真↓。この分が旧地名「細工谷町十七」番地、すなわち『紀要』所載のものに該当する)

 このあと、この地域の連合会長さん宅へ連合の区域図(黄色い住宅地図)を貰いに行った。現在進行中の、難波片江線道路拡張の状況を把握したいためである。その会長さんから、すぐそこの(=所番地で言うと細工谷二丁目10番街区の)N家の南角にも鶯の丘の石碑があったが、最近家を取り壊した際に工事業者が廃棄してしまった―という話を聞き、これにも又々驚いた。傍におられた奥さんも同じように証言されていたから間違いない。すると、現存3基・行方不明1基で、この近辺に少なくとも同様のものが4基あったということになる。
(つづく)