播磨風土記の「猪飼野」考(続々)

[猪飼野]播磨風土記の「猪飼野」考(続々)

 『猪甘部考』(瀧川政次郎 昭和46年 日本歴史272号([御幸森天神宮壹千六百年祭記念誌]に転載))
に播磨風土記<猪養野>の記事、「天照大神の坐せる舟のうえに」の語句について、

 天照大神の坐せる船というのは、天照大神を祖神として祀る大和の朝廷のことである。(日向の肥人・朝戸の君は、猪の肉をミツギとして献ずることに依って、播磨の国に猪を放牧する土地を賜ったというのである)

と解説されているが、意味がよく分からなかった。「朝廷のことである」ではなく「朝廷の軍船のことである」と書くべき所を<軍船の>の文字が印刷ミスで脱落したのか、ミツギを献上した相手が朝廷であり、土地を与えたのも朝廷なので、うっかりそのような表現になってしまったのか、のどちらかであろう。
 
 前掲の『播磨風土記新考』(井上通泰)では、
 例えば、応神紀十六年条・仁徳紀十七年・同五十三年条の「新羅を撃つ」などの時、神功皇后の故事・吉例に倣って多分 天照大神の荒魂を祀る[広田神社]の神霊を船中に奉斎したのであろう(=大意)
としている。
 
 仁徳紀五十三年条には、「新羅朝貢(みつぎたてまつ)らざりき。夏五月、上毛野君の祖竹葉瀬(たかはせ)を遣わして、その貢(みつぎたてまつ)らざることを問はしたまひき。この道路之間(みちのほど)に、白き鹿を獲て、すなはち天皇に献り、更に日を改めて行きき。・・・」とある。

 私は「(仁徳天皇のみ世)日向(ひむか)の肥人(くまびと)朝戸(あさべ)の君、天照大神の坐せる舟のうえに、猪(ゐ)を持ち参来て、進(たてまつり)き。」という播磨風土記のこの記事は、仁徳紀五十三年条に照応するもの、と素人の独断でもって勝手に決定した。(「猪甘の津に橋わたす。其の処をなづけて小椅[をばし]」といふ」の記事が仁徳紀十四年条なので、後先になってしまうが、已むを得ない)
 その理由は(と言っても他愛ない理由だが)、播磨国賀茂郡辺りにいた「針間鴨国造」と、このとき派遣された上毛野君(かみつけぬのきみ)とは同祖である、つまり親戚である。「白き鹿を獲て、すなはち天皇に献り」は単なる瑞兆の記録に過ぎないのだろうが、同郡「椅鹿谷」にある真言宗椅鹿寺(はしかじ)の山号が「白鹿山」で、白い鹿にまつわる縁起(ただし、聖徳太子に関係付けている。写真:下)が記されていた。

 なお、上毛野君の祖竹葉瀬は「高椅」の意味ともとれ、<椅>に縁がありそう。
 まぁこれは戯れ言であって、そんなことはどうでもよい。

 ぼちぼち話の核心に入らないといけないのだが、果たしてうまくまとまるのだろうか・・・?。