播磨風土記の「猪飼野」考(続)

[猪飼野]播磨風土記の「猪飼野」考(続)

 畏友「神奈備」さん事・瀬藤氏のサイトに「布奈木の郷・船木郷・舩木郷」の一覧、
http://kamnavi.jp/log/funaki.htm
その(14)として
 『住吉大社神代記』播磨國賀茂郡椅鹿山
が取り上げられており、そこに
 「『播磨国風土記逸文』に、住吉明神が藤の枝を流して寄りついた所を領地にするとの伝承が語られており、藤江の浦と名づけたとあります。西明石駅の南に藤江と言う地名がありますが、住吉神社は見当たりません。魚住の住吉神社に大藤が流れ着いたので、神社を鎮祭したとあります。また、この藤の枝は紀ノ川上流から流されて、当地に着いたとも言われ・・・云々」などの興味深い記述がみられる。
 また、同サイト橋本市胡麻生鎮座「相賀八幡神社」のページには「丹生川上に天手力男意気続々流住吉大神を鎮めた」その神社の後身といわれている―とある。
http://kamnavi.jp/ki/itonaga/ouga8.htm
 また、広報「加西市史」第2号 特集:播磨国賀毛郡の地名伝承
http://www.city.kasai.hyogo.jp/02kank/08sisi/koho2/content.html
をちょっと引用させて頂くと、

2.賀茂郡住吉大社領と船木連氏
●古代の賀茂郡は、大阪の住吉大社とたいへんゆかりの深い土地です。当時の住吉大社は国家的な航海守護神として、朝廷の厚い崇敬をうけていました。代々の神主の津守連(宿祢)氏は、神職であると同時に、外交官としても活躍する一族でした。この津守氏が九世紀末頃に作成したと考えられる『住吉大社神代記』(以下、『神代記』と略す)という古文書があります。そこには本郡内に「椅鹿山」と呼ばれる九万八千余町の杣山があると書かれています。
●この杣山は、一つに大社の増改築用の材木を供給する役割をもっていました。もう一つは、海外へ向かう大型船舶の、造船用木材を伐り出す山林だったことです。
●船木連氏の根拠地 『神代記』によると、そもそも椅鹿山という杣山は、船木連氏の遠祖の神が古くから領有し、神功皇后の時代に住吉大社へ寄進したとあります。その後、子孫の船木連宇麻呂・鼠緒・弓手らの三人が「山を斎き護り」、そこから船を造り献上したと伝えます。
●(神功皇后は歴史上実在した人物ではありません。様々な要素の神話や信仰が組み入れられた伝説上の人物といわれています。したがって右の寄進年代などをそのまま信用することはできません。おそらく七世紀後半の天智天皇の頃、最終的に住吉大社領として公認されたのが実情だったようです)
●しかし船木氏が代々この杣山を直接管理・領有する氏族だったことは、ほぼ間違いありません。今でも加東郡を流れる東条川の上流に、「椅鹿谷」(加東郡東条町)という地名が残ります。その下流付近の小野市には「船木町」(=明治十年までは船木村)の地名もあります。これをみると船木氏の根拠地が、この東条川流域にあった可能性はかなり高いといえます。近辺の住民を動員して多くの材木を伐採するとともに、それを加古川水系の舟運を利用して各地に運搬し、船舶の建造などに結びつけていたと思われます。

※椅鹿谷・船木町の文字に注目。
 この図の作者(広報「加西市史」古代史委員・坂江渉氏)は紀ノ川流域から葛城地方までも視野に入れている。
 「神奈備」氏は、紀ノ国の東方・伊勢 佐那県(さなノあがた)の「佐那神社」に言及。
http://kamnavi.jp/en/mie/sana.htm