陣堂さん・四天王寺の”公人長者”・映像の吉村さん

 午前中、片江の陣堂(陣戸)さん邸へ先日のお礼の印までに、冊子や地図などをお届けに行ったら、逆にまた高価そうなお茶の包みを頂いてしまった。なんとも面目ない次第。
 午後、四天王寺の古本祭、0Kさんと時間を合わせて落ち合うことにする。今日は、雨が急にザァーと降ったかと思うと、一転してカラッと晴れ渡るというヘンな天候なので、出店者は大変だろうと思うが、皆さんにこやかに商売に励んでおられる。屈託のない表情で弁当を食べているkugaさんと少し話をした。
 今日四天王寺に来たのには、他にも目的があった。0Kさんに吉村さんの映像作品の複製を頼んでいたのを受け取ること(等)、それから本坊のN師に面会すること、の2つである。
 N師にお尋ねしたかったのは”公人長者”(くにんちょうじゃ)のことであった。谷川健一著『四天王寺の鷹』(2006.5刊)にそのことが書かれている。物部守屋に仕えた人たちの子孫が、いまでも”公人”と呼ばれて四天王寺のいろんな仕事に就いており、「その中の公人長者はとくに四天王寺の大祭の聖霊会には欠かせない役柄です」(P 32)という。N師によれば、この公人長者は現在は、普通の民間人で聖霊会の日(4/22)にだけ奉仕をお願いする。公人長者を欠いては聖霊会が始まらない(成り立たない)とのことであった。その家筋は玉造家・玉野家の二家などだそうだが、”四天王寺 玉造創始説”と何か関係があるのだろうか。その点を聞き漏らしてしまった。ノリトのようなものを奏上するそうだ。
 このあと奥の庭園で、朝鮮通信使・雪峰が書いたと伝えられる「下馬標石」を見る。”朝鮮人書之”の”朝”の文字は半分以上風化して全体的にも判読がかなり困難な状態である。
 松下幸之助さん寄進の和松庵で抹茶をいただく。本坊側の建物の階段に腰掛けて、美しい庭を眺めながらのんびりした時間を過ごした。0Kさんは、さっき聴いた公人長者の伝統が千年以上も続いているという事にしきりに感心していた。
 帰宅後、吉村さんの映像作品(『さようなら市電』=1970年・シングル-8友の会・第3回コンテスト努力賞受賞)の原版をお返しに行く。そのひとコマはすでにご承諾を得た上で、

猪飼野探訪会>血と骨の世界>⑤市電「大成通一丁目」停留所http://tanboukai.ikaino.com/titohone/titohone.5.htm

に使用させて頂いている。市電の廃止は昭和44年4月のことなので、37年前のことになる。

 朝、猪飼野ドットコムのTOPページに、わが家の屋上の風見鶏の写真を貼り付けようとしたが、文字との配置がうまく行かず、夕方先生に直して貰った(http://ikaino.com/)。ほんと難しい。