三韓坂・唐居殿などなど

heisai2006-09-13

 天王寺区の”真田山の坂”を西へ登り切った交差点の西北角に有名な”円珠庵”があることは周知の通りである。しかし、この円珠庵から西へ下る坂、つまり上本町4丁目から東へ、円珠庵の方向に登ってくる上り坂を”三韓坂”と称するというのは、一般にはどの程度知られているのか私は知らない。
 後藤二郎さんの『歴史の散歩道』第1号には触れられていたかも知れないが、ちゃんとした?文献(=区史・市史などのような分厚い本)には載っていないのではなかろうか。
 私の知る限りでは、この”三韓坂”の説明文を載せている比較的古い文献は『四天王寺と大阪』(明治43年初版・昭和9年再版、生田南水 著)のみで、これが文献上の初見なのではなかろうか?。その83ページに、
 三韓 円珠庵の前にある坂をいう。往古今の真田山陸軍墓地および騎兵隊営所のあたりに鴻臚館ありしといえば、その前にある坂なりしを以てかかる名の伝わりしなるべし。この辺は高津帝都の左京にあたれるなり。


 なお、円珠庵の交差点より東側、つまり餌差町側では小橋寺町の寺々のいらかが近代までこの東西の道を塞いでいたから、現・真田山の坂は三韓坂ではないと考えるのが自然だ。(三韓坂という伝承地名がいつの時代のものかはっきりしないが、少なくとも江戸期には今の真田山の坂は存在しないのであるから―)

 とにかく、文献的にははなはだ頼りない心細い伝承地名であるが、これを書き留めておいてくれた生田南水翁には感謝せねばならない。(ちなみに翁の家は代々、天王寺区上之宮町にあった上之宮神社の神官であって、現在その跡地に翁の”百済・・・”云々の歌碑がある。生田花朝の父)

 次に、真田山の坂を東へ下り切った所、「真田山」交差点からやや東北方向に”唐居町”という町名があった。この町名は現・JR環状線の東西両側に跨って存在したが、その範囲は玉造駅の南側にあって、旧・猫間川と玉造日の出通りとに挟まれた、猫のひたいほどの小さな区域であった。しかしこんなに小さいのに、天王寺区と東成区に跨っていたために、その両方の区に同じ町名が存在した。(現在の天王寺区玉造元町8〜10番、東成区東小橋1丁目19番に該当)

 『大阪府全志』によれば、大阪市東区唐居殿・唐屋敷・唐屋敷黒門の小字名が存在した。(明治33年、この三つの小字を併せて東区中道唐居町とした。※この町域は現・JR環状線の東西両側、すなわち現在の東成・天王寺両区に跨る)

 『東成郡誌』(大正11・1922年)上巻P589に
中本町>大字中道>小字名・唐居殿(カラヰデン)121〜170番
の記載がある。
 さらに、同じ『東成郡誌』上巻P651、
中本町>名所、旧跡>三韓館址 に
「大字中道小字唐居殿をその旧址なりと[摂津名所図会]に云えり」
と記す。
(※ややこしいが、この唐居殿付近は明治30年以降、大阪市東区に編入されたために『全志』に上記のように記述されているわけである)

※ 写真は架道橋のネームプレートにのみ残されている「唐居町」の貴重な表示
  
<追記>
 『大阪と半島人』(1938・昭和13年、東光商会書籍部、高権三 著)P12に
「第26代継体天皇の御代には、今の東成区中道唐居町の一帯に高麗館、新羅館、百済館等を設けて、朝鮮から来る人々の宿所にあてて優遇したため、朝鮮から大阪付近に移住する者が漸次増えて、・・・それから第38代天智天皇の御代には、百済が唐と新羅の連合軍のため滅ぼされるや(*西暦663年)、百済の王子善光が約400名の従者を率いて朝鮮半島を脱し、船を以て大阪に渡来し、これらの従者とともに帰化したのである」
と書いている。
 なお、唐居町の町名の変遷は、『角川地名大事典』によって要約すれば、
◑ 明治33年〜 東区・中道唐居町
◑ 昭和10年〜 東区・唐居町
◑ 昭和18年〜 東成区・唐居町 昭和45年〜 東成区東小橋の一部
  昭和18年〜 天王寺区・唐居町昭和40年〜 天王寺区玉造元町の一部 

 従って『大阪と半島人』の文中、”今の東成区中道唐居町”という表記は厳密には正しくない。