宮本伊織奉納の鰐口(泊大明神)

heisai2006-08-21


 この短文は約十年ほど昔に書いた旧稿である。ある会の依頼で寄稿したものだが、その担当者は創刊号は出したものの、二号目の段階で原稿だけは集めておいて、あとは”尻食らい観音”で知らぬ顔。三号雑誌どころか一号だけで終わってしまった。世の中にはひどい奴がいるものである。
 その原稿、このまま眠らせてしまうのも少し癪なので、ここに載せておく。

「大分以前になるが、ある必要のために、暗(くらがり)越え奈良街道沿いにあるxx寺という辻堂を見に行ったことがあった。
 その時、ついでにお堂の前面に掛かっている鰐口の銘を、甚だ失敬なことながら、堂前の石の線香立ての上に登らせて頂いて観察した。その銘は図のようなものであった。
 そして、その時はどうということもなく済んでしまったのである。
 ところが、それから一年後位に、偶々宮本武蔵に関する小冊子をパラパラッとめくっていた時に、「泊神社棟札」という項目が目に入った。そしてそこに棟札の全文が掲げられており、その文末に”時に承応癸巳二暦五月日 宮本伊織源貞次謹白”とあった。
 ここで初めて、鰐口の銘にある「宮本貞次」が武藏の養子として有名な「宮本伊織」その人であることが判明したわけである。しかもその年号、承応二年は宮本伊織が小倉で小笠原侯に仕えて家老にまで出世をし、郷里の泊大明神の社殿を造営したその年のことで、現在xx寺に人知れず掛けられているこの鰐口は、その際に作られ奉納されたものである。
 私は加古川市にある泊神社(旧、郷社)に対し、電話でこの旨を知らせてあげたが、神社側は一向に関心を示す様子がなかった。これは一体どうしたわけだろうか?。」


※ 図は、この原稿のために当時ワープロで打った文字を貼り付けて作ったもの。
 この拙文からは、鰐口の裏側に「承応二年」の銘があったように解されるが、古いことなので私自身正確な記憶がない。また、この鰐口のその後のことは承知していない。当時、読売新聞のコラムに書いて貰ったので、市の教育委員会辺りがそれをキャッチして善処してくれていると良いのだが・・・・・。
 なお、ネット情報によれば、高砂市の「神宮寺」に【高砂市指定文化財】の鰐口が保存されているが「正保三年(1646)」のものだそうで、承応二年(1653)とは7年の隔たりがある。神宮寺のものは他の文字が分からないが、武蔵の一周忌供養の折りのものだとか。
<参考>  「武蔵出自の謎」のサイトhttp://homepage3.nifty.com/harimaou/musashi/musashi.htm
高砂市米田 訪問記(その2)」のサイトhttp://homepage3.nifty.com/harimaou/musashi/musashi20.htm