”大体やねぇ”の竹村さん

heisai2006-08-11


 高名な評論家である竹村健一氏は猪飼野の地元民が誇るべき「猪飼野ゆかり人物列伝」の中のビッグな一人である、といえよう。

※ 画像は、「ズバリ発禁個所が読める『欧州ポルノ名作教室』」(竹村健一著・明文社・1972・表紙/本文イラスト 笠間しろう


 ワールド ワイド 竹村>竹村健一の足跡>竹村健一の歩んだ道(http://takemura.cplaza.ne.jp/)によって、その略歴の前半部分を瞥見してみよう。
1930年(昭和5年)                         
 ●4月7日 大阪市浪速区にて、長男として生まれる。父・竹村貞次、母・ふくの(当時学校 の看護婦)。非常な難産で身体が弱かったため「健康が一番」との願いから「健一と命名
 やがて、父がメガネのフレーム製造工場を、安い労働力が豊富だった大阪市生野区猪飼野に設立。一家で移住する。

1936年(昭和11年) 6歳
 ●4月 北鶴橋小学校に入学。

1942年(昭和17年) 12歳
 ●4月 大阪市立生野中学校に入学。
 小・中学校時代は成績もよく、級長もガキ大将もという具合。ぼんぼん育ちだった。

1943年(昭和18年) 13歳
 ●4月 戦争のため疎開兵庫県立生野中学校に転校。都会育ちのため、体力が地元の子供に劣り、“ぐうたら”と呼ばれる。

1948年(昭和23年) 18歳
 ●4月 旧制姫路高等学校、文科甲類入学。
 当時は戦争直後で、教育制度、学生の気分が荒れており、姫高の三学期の授業は「学生運動激化のため無かった」記憶がある。

1949年(昭和24年) 19歳
●4〜9月 アメリ進駐軍で通訳のアルバイト。
●9月 新制京都大学文学部第一回生として入学。
 新制度のためか、9月から大学が始まった。授業は現京都大学構内ではなく、宇治分校(旧軍隊宿舎)で行われた。


※ 旧制姫路高等学校と新制京都大学との関係およびその後の経歴は、ウィキペディアによれば次の通りである。
「旧制姫路高等学校文科甲類に入学するが学制改革により翌年新制京都大学に入学。アメリカ・フルブライト財団主催のフルブライト奨学金制度の第1号としてアメリカ(シラキュース大学)に留学。京都大学文学部を卒業後、毎日新聞社の英字新聞Mainichi Daily Newsの記者、追手門学院大学英文科助教授、拓殖大学客員教授等を経て現職。・・・・・」

 他の本などによると、エール大学・シラキュース大学院・パリ大学ソルボンヌ大学に遊学、などの記述もある。外国の大学の制度的なことはよく分からないが、これだけ沢山の大学で勉強をしているのだから、”超”のつく秀才なのであろう。
 ついでに、別の本から竹村氏のことにふれた記述を引用しておくと・・・。
 「1980(昭和五十五)年に「竹村健一200冊出版記念パーティー」が開かれた時、時の大平首相をはじめ有名政治家や、総評など左翼陣営からも多数の出席があり、この余りの豪華な顔ぶれに、『ニューズウィーク』がまる1ページぐらいを竹村氏に割いて「日本では首相よりも力のある男」と書いた。そのために、竹村氏はその『ニューズウィーク』をかざせば、世界中のどこの首脳とも会えるような人になった、といえる。」(『日本不倒翁の発想(松下幸之助研究1)』渡部昇一・学研・1983・P319)


 さて、そのような輝かしい経歴談のあとで、急に地元的な卑近な話題になってはなはだ恐縮だが、冒頭の略歴に出てきた「生野区猪飼野町」の住居というのは、実は私の住居から30秒とかからない、目と鼻の先のご近所である。その辺の話を忘れないうちにちょっとメモしておきたい。

 私の現在の住居は、一昨日このブログに書いた「私の生家」と同じ通りに面し、そこから北へ200mの場所である。
 その私の現住所から北へ3軒目に、数年前に亡くなるまでY・勇雄という人がいた。この人から以前聞いた話である。
 この人の家は角家だが、そこを東へ折れて数軒行った左側の家2軒分が竹村氏の実家跡だそうだ。
 Y氏は竹村健一氏の一学年上級生で、ともに学校は北鶴橋小学校(従って、田端義夫の10年ばかり後輩ということになる)。家が近所なので小学校1〜6年の間ずっと一緒に遊んだ。近所にもう一人、H・正夫という子供がいて、健ちゃん・正ちゃん・勇(いさ)ちゃんと呼び合う三羽烏の仲良しだった。
 健一の親は彼を天王寺商業に入れるつもりだったそうだが、担任の高田先生がそれに反対をして、その結果「府立生野中学校(旧制)」に進学した。高田先生は学業優秀だった健一の能力が埋もれるのを惜しまれたのである。当時は中学校へ進学するのがエリートコースであった。(因みに勇雄は高等小学校(2年)を卒業後、志願して兵器学校へ進んだ)
 旧制府立生野中学校は戦後、新制の府立生野高校となり、のちに(1966)大阪府松原市に移転した。旧・校地の西側に「生中橋」という橋がある。当時の中学校というものの希少さ、重みが感じられる。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E7%94%9F%E9%87%8E%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1) なお、健一の父はセルロイドの眼鏡枠の製造をしていた、という。

 健一は中学の2年生の途中で、疎開のため「兵庫県立生野中学校」(現・兵庫県立生野高等学校)へ転校した。
ウィキペディア[兵庫県立生野高等学校]によれば、その前身である兵庫県立生野中学校は昭和18年の創立で、”竹村健一氏は第一期生”と記されている。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E7%94%9F%E9%87%8E%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1

 さて、疎開が原因で偶然同名の二つの中学校に跨ることになったという変わった経歴は、氏のユニークな個性を象徴しているようでもある。
 以前、トミーズ雅大阪市生野区出身)のインタビューに答えて「両方の生野中学の同窓会から案内なんかが来るからヤヤコシイてかなわん」という冗談を言っていた。

 2〜3年前、私は旅行で生野銀山を見学した。その際、偶然に竹村健一氏の兵庫県立生野中学校時代の同級生という人物に出くわした。その人は生野銀山の坑内の案内人であった。ガイドの最初の方で”私はボランティアで無給で案内役をしているが、私の同級生の竹村健一は喋ると何十万円もの講演料をとるらしい”みたいなジョークを言って観光客を笑わせていた。
 その人の話によると、竹村氏は故郷が兵庫県の生野であって(親戚もおられるようだ)、大阪の生野は氏の父親の、いわば仕事のための出向先だったのだ。私は逆を考えていたのでその話には少し驚いた。