靖国問題の覚え書 

不毛な論議はもうやめだ。
 以下は、私自身のための覚え書である。

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侍従長の遺言―昭和天皇との50年』(徳川義寛・岩井克己 著、一九九七年、朝日新聞社発行)より
● 靖国神社の合祀者名簿は、いつもは十月に神社が出して来たものを陛下のお手元に上げることになっていたんですが、昭和五十三年(注=松平宮司就任の年)は遅れて十一月(注=『現代史の対決』によれば、十月七日か?。不明)に出してきた。「A級戦犯の十四人を合祀した」と言う。私は「一般にもわかって問題になるのではないか」と文句を言ったが、先方は「遺族にしか知らせない」「外には公にはしませんから」と言っていた。やはりなにかやましいところがあったのでしょう。(P180)
● 靖国神社には、軍人でなくても、消防など戦時下で働いていて亡くなった人は祀っている。しかし松岡(※洋右)さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったんですから。 それに、靖国神社は元来、国を安らかにするつもりで奮戦して亡くなった人を祀るはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう。筑波(藤麿・元宮司)さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ。(P182)
● 陛下の御製で、昭和六十二年八月十五日に靖国に関して詠まれたのがあります。
   この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし  (P182)

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『誰が御霊(みたま)を汚したのか―「靖國」奉仕十四年の無念』(靖國神社宮司 松平 永芳 )http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/tono.html

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フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/ より
●「東條 由布子」(とうじょう ゆうこ、本名 岩浪 淑枝、1939年 - )は、著述家、特定非営利活動法人理事長。東條英機の長男・英隆の長女。英機の孫に当たる。ソウル(当時、京城)出身。
保守派知識人の一人として知られ、祖父・英機を遺族の立場から擁護し、他の「A級戦犯」も含めて「判決」の正当性・靖国神社からの分祀に否定的な立場をとる。
一方で過去テレビ朝日の「サンデープロジェクト」に出演した際、田原総一朗からこのことについて問われ、「祖父は敗戦の責任があるのだから、その責任を取って死刑になるのは当然」という旨の発言もしている。 また祖父が祀られているために天皇陛下がご参拝できないことになっているのは、大変申し訳ない思いで靖国の鳥居をくぐっておりますとも発言している。
●(「東條英機―子孫」の項)
知識人の一人としても知られ、いわゆるA級戦犯分祀に強硬に反対し続ける東條由布子は孫。
A級戦犯合祀が問題になった際、木村兵太郎陸軍大将の妻で、処刑されたA級戦犯の遺族の会である白菊会の会長でもあった木村可縫夫人らがA級戦犯分祀を提案したが、東條家の強硬な反対で、実現しなかった
●「歴代宮司」(書きかけ項目)
青山清:明治12年6月16日 - 明治24年2月6日(在職中に死去)
加茂水穂:明治24年2月17日 - 明治42年4月28日
加茂百樹:明治42年3月29日 - 昭和13年4月21日
鈴木孝雄:昭和13年4月21日 - 昭和21年1月17日
筑波藤麿:昭和21年1月25日 - 昭和53年3月20日(在職中に薨去
松平永芳:昭和53年7月1日 - 平成4年
大野俊康:平成4年 - ?
湯沢貞:? - 平成16年
南部利昭:平成16年 -
筑波藤麿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%B3%A2%E8%97%A4%E9%BA%BF

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『現代史の対決』(秦郁彦著、2003年、㈱文藝春秋発行)より
● 一般の戦没者合祀が一段落した1959(昭和34)年、厚生省はBC級戦犯刑死者(約1000人)の祭神名票を送り、問題にする声が出なかったので、意を強くして1966(昭和41)年にA級戦犯(一二人、少しおくれて二人追加)の祭神名票靖国神社へ送った。(P265)

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A級戦犯合祀は自らやめるべきである』(4月10日改)http://www.nozomu.net/journal/000150.php  より
● ・・・・・天皇の平和希求の意向をことごとくないがしろにして戦争の旗を振り、国を危うきに至らしめた者たちと、その旗のもと軍の命令に従って死地に赴いた英霊とが、同じ場所で同じように顕彰されていいものであろうか。・・・・・(参考記事豊富)
● 1966年引揚援護局はA級戦犯の「祭神名票」を靖国神社に送り付けました。
 しかしこの当時の宮司筑波藤麿は、山科宮家から臣籍降下した元皇族であり、東大国史学科に学び欧米にも留学した広い視野を持つ歴史家でした。筑波は、これまでの経緯と天皇家宮内庁内の空気を熟知していたので、それに配慮し、合祀を差し止めていました。
 筑波宮司に対して強い介入を行っていたのが、宮司の選出権をもつ合祀諮問機関の「靖国崇敬者総代会」です。総代は10人でしたが、青木一男元大東亜相、賀屋興宣元蔵相などの、東条内閣の閣僚で、3〜10年の拘置ないし服役の後釈放されたA級戦犯が加わっていました。
 青木氏は、「合祀しないと東京裁判の結果を認めることになる」「戦争責任者として合祀しないとなると神社の社会的責任は重いぞ」と迫りました。
 事態が急変したのは、その筑波宮司が急逝し、後任の宮司東京裁判否定派の松平永芳が就いてからのことです。(『侍従長の遺言』『現代史の対決』などに準拠)

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